21グラム

(2003年 / アメリカ)

クリスティーナは、ふたりの娘と優しい夫と幸せに暮らしていたが、その愛する家族を交通事故で失ってしまう。ひき逃げ犯は前科者のジャック。更生し、神を信じて真面目に働いていた矢先の不注意による事故だった。しかし、亡くなったクリスティーナの夫の心臓は、移植を待っていた大学教授のポールの命を救う。このことがきっかけになり、クリスティーナ、ポール、ジャックは引き寄せられるように近づく…。

命の重さは秤では計れない

21グラム

人体を構成する臓器の中でもっとも重要なものは何かと聞かれたら、おそらく誰もが「心臓」と答えるのではないでしょうか。お酒を大量に飲む人だったら肝臓、糖尿病を患っている人だったら腎臓といった感じで、人によって意見は分かれるかもしれませんが、命に直結した臓器と言えば心臓というのは異論のない共通認識だと思います。心臓は全身に血液を循環させるポンプの役割を担っている云々という理屈を抜きにしても、また身の危険を感じたときに無意識のうちに心臓を守るようにする動作からしても、当然といえば当然なのかもしれません。だから、「心臓を失う」ということは生きている者にとってもっとも恐れるべきことであり、もしいま動いている自らの心臓がなくなってしまったら、もうその時点で自分自身という存在は消えてなくなると直感するはずです。これは、たとえば自己紹介するときに胸に手を当てるとかのジェスチャーを見てみても、あらゆる場面で心臓が人格を示す対象とされるからだと思います。

心臓イコール個人なのであれば、生まれ持った個々の心臓はその人の肉体と不可分であり、譲渡したり交換することなどあり得ないはずです。ただ、こうした考え方はいまでは宗教的戒律のようなものとなっており、脳死者らドナーからの心臓移植手術はいまや特別なものではなくなりました。僕が小さい頃は心臓移植のニュースが大騒ぎされたものですが、1997年10月に「臓器の移植に関する法律」(臓器移植法)が施行され、心臓移植適応患者の日本臓器移植ネットワークへの登録が開始されたことを機に、認知が進んだように思います。たしかその頃に、臓器提供カードとかいう黄色っぽいカードに提供できる臓器に丸を付けた記憶があります。ただ、街頭で心臓移植手術のために渡米するための募金活動している団体を見かけることもあり、日本国内ではドナーの数が少ないのか適合する心臓がないのか、あるいは移植手術自体あまり行われていないのか、気にかけたこともあります。ともあれ、消えかけている命をつなぐためには、心臓イコール個人の人格などとは言ってられないと感じたのもその頃でした。

この映画は、もともと無関係だった3人が、ひとつの心臓をめぐり導かれる様を描いた作品。新たな心臓を必要とする人、心臓を提供する人(提供は妻が決意)、交通事故を引き起こした人、これら3人と彼らを取り巻く人たちがそれぞれの立場で葛藤し苦悩する姿が、シーンごとに時系列を入れ替えながら進行していきます。話の内容的には、シーンがバラバラに移り変わる演出に慣れ、相関関係が何となく理解できてくれば取り残されることはありません。言ってしまえば、話としてはストレートなので難解な部分はありません。でも、気になるのが「心臓」の扱い。移植手術を受けた男性はドナーの素性を知るために探偵を雇い、さらには交通事故を引き起こした人さえも突き止めます。本来であれば決して開示されることのない情報を知ろうと思ったのは、やはり新しく自分を形作る根本について知りたかったからだと考えます。もちろん、心臓が人格形成しているわけではないのですが、もし僕が同じ立場だったら新たな心臓のバックボーンを知りたいと思いますし、誰もが同じ感情を抱くのではないでしょうか。知ったら知ったで、以前の持ち主の運命を上書きするのではなく、なぞっていく覚悟も同時に抱くわけですが。

タイトルの21グラムとは、人が死ぬ瞬間に減る重さのことらしいですが、この重さをどう捉えるかは、その人が命、ひいては自分自身の個性をどのように見つめているかにかかっているのだと思いました。


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