チョコレートドーナツ

(2012年 / アメリカ)

ショーダンサーのルディ、ゲイであることを隠す弁護士のポール、母の愛情を受けずに育ったダウン症の少年・マルコ、奇跡的に出会った3人の血が繋がらずとも深い愛情で結ばれていく。

誰もが等しく持つ人間らしい権利とは

チョコレートドーナツ

生きているうちにいつかは、「普通じゃない」という言い方をしたりされることがあると思います。要するに、自分の価値観とは異なる人格や行動などに対して、直感的に感じる「違和感」の発露のことなのでありますが、その違和感の方向性がプラスかマイナスかで問われると、おそらくほとんどが後者ではないでしょうか。どこか、異星人でも見るような視線で、平準的であると信じている自分自身とは異なった行動様式を取る人を忌避しつつ、言い放つ「普通じゃない」。テレビのニュース映像などを通じて、逮捕され連行される猟奇的殺人犯、生々しい銃撃戦の傷跡、性的倒錯者の連続犯行などに接した時には、誰もが手で口を覆って、そのように発するはず。そこまで極端じゃなくとも、「ちょっとおかしいよ」と言い添えられる程度のギャップについても同様。これには異性間、世代間での認識の相違も働いているので、対象は普遍的な非常識であると必ずしも言い切れない面はありますが。

この「普通じゃない」をジョークとして好意的に受け取るか、その反対に人権批判的に重く受け取るかは状況によるとしか言えませんが、仲間うちでふざけ合っているならまだしも、本来であれば見知らぬ人に対して、滅多に発する言葉ではありません。だからこそ、これほど正直な表現はないと言えるのかもしれません。たとえば、交通量の多い大通りで、歩行者用の信号が赤にもかかわらず、何食わぬ顔で横断しようする人には普通に出てくると思います。「あいつ、おかしくね?」「普通じゃねーよな」といった具合に。中には、一般人が迷惑することを素知らぬ顔でやる人のことを英雄視する向きもあったりします。「赤信号皆で渡れば怖くない」的発想であり、ここまできてしまうと集団心理が異常な程度に高まった状態となるため、笑い事ではなく、どこかで歯止めを掛けないと取り返しの付かないことになってしまいます。

では、「普通じゃない」じゃない、いわゆる「普通」ってなんなんだという話になります。定義上は「ありふれている」ということで、要するに、大勢のうちのひとりということ。新宿や渋谷の雑踏のみならず、地方の商店街を歩いていても、周りに溶け込んでいる実感と言えるでしょうか。そうすると、「普通じゃない」とは、俗に言う「浮いている」という言い方がいちばんわかりやすいかもしれません。それは、その他一般を圧倒的統率力でまとめあげるカリスマ的な存在のことではなく、単に不快感の伴う自分勝手のこと。お正月にハロウィンの格好している人見たら、誰だって不愉快に思うでしょう。

この映画は、語弊があることを覚悟で言うと、「普通じゃない」3人が出会い交流していく様子が描かれています。ゲイバーのダンサーとして歌い続けるルディ、弁護士でありながらゲイのポール、そしてヤク中の母を持つダウン症のマルコ。ルディは見た目そのままのゲイとして、ポールは立派な職業人でありながらゲイであることを隠し続ける身として、マルコは障害者として、それぞれ世間から白い目で見られ、爪弾きにされています(時代設定が1970年代なので、現在より偏見が強かった)。そんな3人が出会い、母が逮捕され身寄りを失ったマルコを引き取り、一緒に暮らし始めます。この3人が引き寄せられたのは、3人ともが「普通じゃない」素性を持っているという価値観の共有だったのか、それとも「赤信号皆で渡れば怖くない」的な開き直りだったのかはわかりません。ただ、それでも3人ともが共通のひとつの居場所を見つけ、その場所こそが自分の帰る場所であることを確かめ合います。その姿は本当の家族でした。

それを取り壊し、世間一般で言うところの「普通」の生活に引き戻そうとする公権力が介入してきます。しかし、彼らにとって、その「普通」とは、「浮いている」ことでしかなかった。確固としたつながりを一度持ったなら、たとえバラバラにされても戻るのは、その場所しかない。この帰巣本能というか、戻るべき場所を持つということは、「普通」の人にも「普通じゃない」人にも等しく与えられた、人間としての権利なんだと感じました。


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