東ベルリンから来た女

(2012年 / ドイツ)

1980年夏、旧東ドイツ。バルト海沿岸の田舎町の病院にひとりの美しい女医が赴任してきた。彼女の名はバルバラ。かつては東べルリンの大病院に勤務していたが、西側への移住申請を政府に撥ねつけられ、この地へ左遷されてきたのであった。

壁の向こうにあるのは天国か地獄か

東ベルリンから来た女

ヨーロッパ旅行中、ベルリンの壁を見に行きました。それが、ドイツのベルリンという都市を東西に分断するためにそびえ立っているものだということは幼い頃には何かで知っており、学生になってから、その壁がハンマーで叩き壊わされる映像が頻繁にテレビで流れたのを強烈な印象とともに記憶しています。なので、僕自身がリアルタイムで見聞きした歴史をこの目で見られるということに興奮していたのですが、実物を目にするや、高速道路と一般道を隔てる障壁のようにしか見えず、肩透かしを食らったような気になりました。また、一面スプレーアートが施されているので、アメリカの治安の良くないエリアを歩いている思いがしたのも正直な感想。完全に観光地と化してしまっていることを抜きにしても、この壁を境にして東側をソ連、西側をアメリカ、イギリス、フランスが統治していたという歴史をうかがい知ることは難しいと感じました。ただ、それはいまのベルリン市民にとっては良いことなのかもしれません。ソ連率いる共産主義陣営と米英仏を中心とした自由主義陣営が睨み合う東西冷戦の最前線となり、東ドイツの真っ只中でさらに東西に分断された都市が、いまや自由に行き来でき、パッと見どちらが旧東で旧西なのかわからない状態というのは。そうは言っても、東西ドイツ統一後も経済格差は残り、失業率、貧困率ともに東は西と比べて悪いのが現実です。それほど旧東ドイツが経てきた50年という歳月が重くのしかかっているということでしょう。

東ドイツ(ドイツ民主共和国)は、第2次世界大戦後の1949年、旧ドイツ国のソ連占領地域に建国。ソ連の衛星国家として、ソ連を範とした社会主義国家建設が進められ、工業での重工業化と農業の集団化が強行されました。が、社会主義経済の運営は硬直化し、農民の中には集団化に対する反発が根強かったといいます。西ドイツがマーシャル・プランによるアメリカ資本の援助を受け、経済を復興させていったこととは対照的でした。それまではベルリンを両断する壁は存在しませんでしたが、東ベルリン住民が経済停滞、貧困、集団化の強制に不満を強め、西ベルリンを通じて西ドイツに密出国していったことから、住民の流出を防ぐためベルリンの壁が建設されました。1961年のことです。このベルリンの壁は東西冷戦の象徴として立ちはだかるものの、1989年、東欧の社会主義国が民主化の動きを活発化させる中、東ドイツ政府が事実上の開放を発表。翌90年、西ドイツに吸収される形で東西ドイツ統一が成立しました。

分断、とひと言でいい切れるほど単純でないのが占領国による分断政策の妙にあります。イギリスはその典型で、アジア・アフリカに所有していた広大な植民地から撤退する際は、現地人が手を結んで反攻してこれないよう民族ごとに利便を分けて連合させないようにしました。それと似たようなことがドイツにも施されたのですが、こちらの場合は「イデオロギー」の注入でした。西は資本主義、東は社会主義と分かりやすいほどの色分けがされ、その明暗はくっきり分かれました。前述したように、東ドイツではソ連の尖兵として建国されたわけですが、政治体制のほか、国民を震えあがらせたのは「シュタージ」と呼ばれた諜報機関の存在。国民を相互監視し国内の反体制分子を弾圧するための機関で、なんと東ドイツ人口の1割以上がその関係者だったといいます。家族や友人など親しい人の前でうっかり国家の悪口を言ってしまい、その信頼していた人が実はシュタージの一員で密告され逮捕に至ってしまうというケースが普通にあったそうです。また、反体制者として目を付けられた者は、尾行され盗聴され、それを逐一国家に報告されていたとも。この息苦しさの中で、国家に忠誠を深めるのか、あるいは自由を求めるのか、現在の自由主義国家に暮らしている僕らでも、知らずのうちに選択を迫られている感覚につままれました。もしかしたら、何かを分断する見えない壁がすでに張りめぐらされているかもしれない。


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