ビートルジュース

(1988年 / アメリカ)

のどかな田舎町に住むアダムとバーバラの夫婦は、事故で橋から自動車ごと転落してあえなく死んでしまう。やがて彼らの家に、ニューヨークから金儲けの機会をたえず狙っているチャールズと、一人よがりの彫刻を作っている妻デリア、前妻との娘で妙に冷めているリディアの一家が越して来た。

死後の世界は子どもの発想で想像しよう

小学校1年か2年の頃だったと思いますが、当時仲の良かった友だちと「死んだらどうなるんだろうね」という話で盛り上がった記憶があります。所詮子どもが話題にするなので、死ぬときの苦しみや残していく人たちに対する惜別の情などを俎上に上げることなどするはずもなく、ただひたすら死後の世界についてだけ、あることないこと面白おかしく話していただけ。死後の世界、つまり死んだら天国に行くのかそれとも地獄に落ちるのか、はたまた死んだ瞬間に別の人間か動物、魚、昆虫、植物などに生まれ変わるのか。こうした答えの出ない問答を続けていくのが面白くて、彼とはことあるごとに互いの想像上の世界を打ち明け合っていたものです。

死ぬということが楽しい想像ごとであり得たのは幼少時の特権であり、やがて個人としての分別が備わってくる頃合いになると、死が恐怖や悲しみの対象であることを自覚するようになります。そのきっかけは、身近な人の死であり、日々テレビや新聞で報じられる自殺のニュースであったりします。それに伴い、もし自分が死んでしまったら家族がどんなに悲しむか、会社にどんなに迷惑をかけるか、同世代の友人にどんなに衝撃を与えるかを理解するようになり、年をとるごとに「自重」という精神が養われていくのだと思います。とはいっても、死はいつ襲ってくるかわかりません。ゲームのように、ライフ(生命)を増やすこともできなければ、リセットボタンもありません。だからこそ、生命保険という商品は人類が存続する限りなくなることはないし、タイムマシンとか不老不死とかに対する憧れがなくなることもないのでしょう。

でも、実際死んでしまったらどうなるのか。三途の川を渡って閻魔大王の裁きを受けるとのことですが、本当のところは誰にもわかりません。死人に口なしとはよく言ったもので、一度死んでしまったら、もうこの世の誰ともコンタクトを取ることはできなくなってしまうのです(幽霊とか怨霊とか祟りとか、死んだ人がこの世の人に影響を与える現象があるという話をよく聞きますが、僕はビビり症なのでそっち方面は耳を塞ぐことにしています)。だから怖いのです。死後の世界がどんなものかわからないからこそ、死に直面した瞬間には、底知れぬ恐怖で「死にたくない!」と叫ぶのです。

というわけで、死後の世界について語る時は、小学校1年か2年くらいの発想で「死んだらどうなるんだろうね」と暇つぶし程度のノリで喋るのがちょうどいいのではないかと思います。そう、まさにこの映画のように。これから新婚旅行に出発するという矢先、思わぬ不慮の事故で死んでしまった夫婦。思い入れのある家が勝手に売られてしまい、越して来た一家によって不本意な改造を施されてしまいます。自分たちが死んだという現実に納得がいかないだけでなく、家までも好き勝手されてしまっている。なんとかして彼らを追い出したい。彼らは、死者の間でも札付きのエージェント、ビートルジュースに依頼するという話です。

コメディですので、小学校1年か2年くらいでも十分理解できる内容だし、それほど深く考えながら観る映画でもありません。たしかに、越して来た一家の娘は、継母との関係が基で家族とうまくいっていない葛藤を抱えているという面はありますが、深読みしなければストーリーを追えないといった難解な心理描写などありません。だからこの映画は、死んだらこうなるかもしれないね、という寛大な気持ちで笑い飛ばしながら観るべきです。真剣に凝視して、足元に石につまづいて転んで頭打って死んでしまったら、それこそ元も子もありませんから。


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