神々と男たち

(2010年 / フランス)

96年にアルジェリアで起きた実話に基づいた感動ドラマ。アルジェリアの小さな村の修道院では、フランス人修道士と現地のイスラム教徒が宗派を越えて交流していた。しかし内戦の激化に伴い、修道士たちは土地を去るか残留するかの決断を迫られ…。

宗教の共存を妨げるものは何か

神々と男たち

ごくたまにですけど、僕が住むアパートにもキリスト教教会の人が「お話を聞いてほしいのですが」といった感じで勧誘に訪れます。そのたびに僕は、インターホン越しに「結構です」と冷たくあしらって追い返すということを繰り返しています。おそらく、日本のどこでも、キリスト教に限らず似たような勧誘活動が行われているのでしょうが、考えてみればこれはとても冒険的で危険の伴うことなのではないかとも思うのです。たとえば、自覚はないとはいえ、僕は仏教徒です。もし僕が敬虔かつ排他的な仏教徒で、お釈迦様以外は信仰の対象として認めないどころか、自らの信仰を脅かす悪魔だという思考を持っている人だったらどうなるでしょう。部屋のベルが鳴らされ、訪問者がキリスト教関係者とわかった瞬間、仏教を否定し邪教への改宗を勧めに来たと逆上し、その訪問者を叩きのめそうとしてしまうのではないでしょうか。

ですが、幸いというか、僕も一般的な日本人のご多分に漏れず、信仰の如何にかかわらず宗教には寛容(無頓着)です。初詣やお盆などでお寺に行くこともあれば、神社に祈願をしにいくこともあり、クリスマスやハロウィンのイベントにも参加することもあります。これらは宗教行事というより、日本ではすでに一般的な行動様式となってしまっているので、僕も含めそれが宗教と密接に関わっていると認識している日本人は多くないと思います。僕個人で言えば、部屋に神社の御札を祀っていますし、バッグにはお寺で買ったお守りを忍ばせていますし、大学はミッション系でした。だから、僕のアパートにキリスト教などの勧誘が来たりポストに新興宗教のチラシが入っていても、迷惑だと軽く思いはすれど報復行為に出るなどといったことはしません。

これはあくまでも日本での事例ですが、海外だと様相が一変します。つい最近の話ですが、2015年1月7日、フランス・パリにある出版社「シャルリー・エブド」に覆面姿の男が押し入り、職員や警官など12人を殺害するという事件がありました。容疑者はアルジェリア出身のイスラム教徒の兄弟で、シャルリー・エブド誌がイスラム教徒の開祖ムハンマドを風刺したイラストを掲載したことに宗教的侮辱を覚え、襲撃に至ったと見られています。事件後、兄弟2人は車を奪って、シャルル・ド・ゴール空港近くの印刷所に人質をとって籠城。彼らは特殊部隊により射殺されましたが、パリ東部にあるユダヤ系食料品店に立てこもった別の容疑者は特殊部隊の突入により射殺される前に人質4人を殺害していたという痛ましい結果に終わりました。この事件を受け、フランス各地で数万人規模の犠牲者を追悼するデモが行われたのを皮切りに、ヨーロッパ各地でイスラム教ならびにイスラム移民排斥の機運がこれまでになく高まっているとのことです。

もともとキリスト教とイスラム教は、ユダヤ教から派生した親族宗教です。契約が聖書かコーランかという違いはありますが、たったひとりの同じ神を信じ、エルサレムを聖地とし、偶像崇拝をしない(キリスト教は絵画や像を通して神に祈るという建前)など共通する点は多々あります。僕は宗教者でもないし敬虔な信仰者でもないのでこれ以上語ることはできませんが、イスラム教が誤解される理由として挙げられる「聖戦」に注目したいと思います。キリスト教にも聖戦はありますが、イスラム教のそれはあくまでも自国に対する侵略戦争を仕掛けられた場合にのみ行われます。侵略してくる敵に対して自ら立ち上がって自国を守ることを奨励し、その自衛の戦争のことを聖戦というのです。だから強制改宗が目的の異教徒に対しては立ち上がりますが、普通の旅行者に対しては非常に親切にもてなしてくれます。ただ、一部の過激派がこれを悪用していることは事実で、イスラム教=テロリストというイメージが世界的に形成されてしまうことは、穏健なイスラム教徒にとって大変迷惑なことであり、逆にこれを利益誘導に利用したい勢力にとっては都合の良いことなのでしょう。

何度も言いますが、僕は特定の宗教を語るに足るほどの生活は送っていませんから、たとえお釈迦様が雑誌か何かで風刺されたとしても平気の平左でいられます。むしろ笑ってしまうかもしれません。ただ、中には熱心に人の家のチャイムを鳴らし執拗に勧誘してくる宗教団体もあり、僕も一時期その「迷惑行為」を喰らいました。あまりにしつこかったので、しまいには大声で怒鳴って追い返しましたが、考えてみればこれだって信仰の侵略に他なりません。撃退した僕は小さな聖戦を戦ったと言えなくもありません。こうしたハイミクロのレベルでも宗教紛争が起きる可能性があるのですから、国家同士ならなおさらでしょう。ただ、いかに殉教が尊いと聞かされたところで、僕は宗教間での争いで命を落とすことは本当に損なことだと思っています。だから、また僕のアパートにキリスト教の人が来ても、応答せず無視するのが一番いいのかもしれません。


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