イーグル・アイ

(2008年 / アメリカ)

ある日、平凡な毎日を送るコピーショップ店員のジェリーの携帯に、知らない女から電話がかかってきた。「今すぐ逃げろ」という女の警告を無視したジェリーはその直後、身に覚えのないテロ工作の容疑でFBIに拘束されてしまう。

監視から逃げ切ってこそ勝ち取れるものとは

民主主義とか平和主義とかいう言葉を聞くと、条件反射的に「自由」を連想する人は多いと思います。そうでなくとも、束縛や隷従といった奴隷社会のようなニュアンスとは異なる、社会の成熟度や国民の教養も高い近代的な国家のことを思い浮かべると思います。その通りだと思います。ローマに滅亡させられ奴隷供給地となったカルタゴや、モンゴル帝国に蹂躙されたユーラシア大陸、スペインやポルトガルの狩場となった南アメリカ、革命で共産主義国家になったソ連や中国などの歴史を見ていくと、フランス革命で共和制を求めて叫ばれた「自由、平等、博愛」の概念が一切見当たらないことに気づくと思います。支配層と被支配層が明確に区別され、富める者は富み、貧するものは貧するという完全な二元社会。大多数の主権のない人民たち(「国民」ではない)に夢や希望などなかった。ソ連や東欧の社会主義が崩壊し、中国も改革開放で資本主義化に舵を切らざるを得なかったことからも明白です。

では、民主主義や平和主義が浸透している国で暮らしている人たちは、本当に「自由」を享受していると考えているのでしょうか。もちろん、現代の北朝鮮のような圧政を敷く独裁君主制の国家と比べたら、間違いなく「自由」でしょう。将軍様への奉仕と称して実質的な強制労働を強いられ、海外旅行はおろか、やりたい職業に就いたり隣の町に勝手に遊びに行くことすら許されない。脱北や反社会的行為(将軍様への批判的な言動)を取ったら、強制収容所に入れられ洗脳教育を施される。そんな前時代的な国家と比べたら、僕たちの日本はどう考えても、いや考えるまでもなく「自由」です。だって、好きな時に好きなところへ行ける、自分の意志で職業を替えることができる、国民皆保険など社会保障が充実している、人とは異なる意見を公の場で主張することができる、さまざまなメディアを通じて内外の情報を知ることができる、などなど。これが「自由」でなくて何でしょうか。これを、日本が近代国家として歩んできた歴史の中で培ってきた、国民が自由を享受する権利でないなどと誰が言えるでしょうか。

とはいえ、同じ日本人でも環境や立場の違いなどで、「自由」など毛ほども感じられない人は大勢います。世界という視点から俯瞰すると、それでも「自由」の範疇なのですが、日本国内だと相対的に自分には「自由」がないと絶望している人が出てくるのは当然のことです。リストラされて収入の見込みがない、難病の治療費が払えず未来に希望を持てない、詐欺に遭って全財産を奪われたなど、挙げればキリがありませんが、このように頭を抱えている人の頭の中で「自由」が飛び交っているわけがありません。その反対に、人生うまくいっている、ある程度の生活はできていると感じている人たちはどうでしょう。四六時中「自由」を満喫しているなんてことはないでしょうが、それなりに前向きに生きているとは思います。これもある意味で「自由」の証左でしょう。しかし、「自由」とはいったい何に対しての「自由」でしょう。それは言うまでもなく社会です。日本という国家の体制です。個人の環境というミクロな視点もそうに違いありませんが、大きく捉えると社会こそが「自由」の度合いを測る尺度となり得ます。

この映画を観て、果たして日本は「自由」な国なのだろうかという思いにさせられました。映画自体はアクション満載でド迫力、テンポが良く飽きさせない展開でとても楽しめたのですが、ストーリーの要をなしていた構造について肝を冷やさざるを得ません。そこでは、「自由」と対をなす現象が描かれていました。「監視」です。北朝鮮をはじめとする独裁君主制国家、旧ソ連や文化大革命期の中国で横行していた(いまも?)監視社会。国家体制に少しでも批判的になると憲兵が飛んできてしょっぴかれ、密告が奨励され、国家への絶対服従こそが生きていくための条件となる。こうした圧政下で排他的な教育を施された人民(主権がないから国民ではない)に、いくら「自由」の尊さを諭そうとしても無理な話なのかもしれません。

どんな環境でも少なからず「自由」がどのようなものか、理解している(はずの)日本人。僕たちは圧政下で肩を落としながら生きている人たちのことを憐れんでばかりいていいのでしょうか。2016年1月からの実施に向け、つい最近、各地で発送の始まったマイナンバー。表向きは、年金の給付や医療保険給付の請求、雇用保険の給付や税の手続きの簡略化につながるとしていますが、各個人の情報が一元化されることで、収入から資産、生活までが国家の管理下に置かれてしまうことが起こり得るのです。住民税や社会保険料の納付逃れができなくなるだけでは済まなくなります(これは結構切実)。このことは、情報流出リスクが高いことも併せ、個人が純粋な個人として生きられない社会が成立してしまうことを意味しているのです。

国家としては国民を統制しやすくなるというメリットがある反面、僕たちは何を失うのか。この問いをかけられて、とっさに「自由」と答えられる人がこの国にどれくらいいるだろうか。それほど僕たち日本人は、自分たちで勝ち取ったものではなく受け継いだ「自由」に甘えまくってきたのです。当然そこにあって、つねに保証されているものと考えてきたのですから、失って気づかないまま民主主義とか平和主義と耳あたりのいい言葉に踊らされ、国家体制の奴隷になっていたというケースも、将来考えられなくありません。


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