ファイト・クラブ

(1999年 / アメリカ)

不眠症に悩む若きエリートのジャック。彼の空虚な生活は、謎の男タイラーと出会ってから一変する。自宅が火事になり、焼け出されたジャックはタイラーの家へ居候することに。「お互いに殴り合う」というファイトにはまっていく二人のもとに、ファイト目当ての男たちが集いあうようになる。

自傷行為をやめるための特効薬とは

自分自身に対して腹を立てて、自らの頬を自らの拳で殴ることがよくあります。できると思ったことができなかったり、思った通りに事が進まなかったり、たいていは幼稚な理由からなのですが、とにかくカッとなったら、身の回りにある物ではなく、攻撃の対象を自分自身に向けてしまうのです。どの程度まで殴るかというと、さすがに脳震盪を起こしたり顔にアザができるまではやりませんが、痛みがじーんと脳髄まで到達して軽く足元がふらつくくらいまででしょうか。自分を殴ると言っても、再起不能になるまで徹底的に殴ることはしません。拳で殴った痛みを認識できて、その痛みが一瞬なりと腹立たしさを軽減してくれれば良しとするからです。怒りが高じているときは、もっともっと血を吐き出すまで自分自身を痛みつけて、自分の弱さを叩きのめしてやりたいほどなのですが、結局寸止めで終わらせるということは、実際そうするだけの度胸や覚悟がない臆病者ということなのでしょう。そうした自分にさらに怒りを覚えるという悪循環に陥るのが毎度のパターンなわけですが。

こうした行為を「自傷行為」ということは周知の事実です(僕のは程度が低いほうですが)。精神構造が歪んで発達している、つまり、成長していく過程で必要だった適切な愛情を得ることができなかったということが、自傷行為に及ぶことの根底にあるそうです。生理学的に分析すると、身体を傷つけることで脳内麻薬(βエンドルフィン)の分泌を促し、心の痛みを和らげる目的があるとのこと。心理学的には、周囲の目を引くために行う、悲しみを確認するかのように儀式として行う、自己の存在を確認するための手段として行うなどといった動機によるとの分析がなされています。この観点に立つと、自傷行為とは「自己破壊ではなく生存意欲の現れ」だと言えそうです。

どういうことかというと、自傷行為に及ぶ人たちの傾向として「自分自身のことを認められない」「自分を愛せない」といった「自己愛」の問題を抱えています。それはつまり、心と頭が乖離してしまっている、心と頭が断絶している離人状態に陥っています。このどっち付かずの状態を解消しなくてはならないため、まず自分で自分を傷つけて痛みがあることで自己確認をする。それから、周囲の人に「こんなに私は苦しんでいるんだ」ということを周囲にアピールするのです。自己破壊をするのであれば、自傷行為という寸止めで終わらせるのではなく自殺という手段を選ぶでしょう。でも、そうではなく、まだ自分を何とかしたい、でもどうしたら良いかわからないという人がSOSを出すのが自傷行為です。周囲の人からすれば迷惑この上ないわけですが、このサインを見逃してしまったら、もうその人は誰にも依存できず立ち直れなくなります。

いっそのこと、街ゆく誰か適当な人に当たりをつけ、一方的に因縁をつけて殴り合いの喧嘩をすれば自己救済につながるのでしょうか。答えは明らかにNOです。なぜなら、こうしたタイプの喧嘩の当事者は敵対意識を前提としています。どちらかが倒れるまで殴り合ったら、それでおしまい。勝っても負けても悪感情のみが身体の中で渦巻くこととなり、ほんの一瞬の爽快感は得られても、高ぶる感情はさらなる破壊へと向かうのみです。では、ボクシングや格闘技教室に通えばいいのか。たしかにそれで正しいかもしれません。でも、入門したては基本動作や受け身の練習から始めるので、長い目で見るという姿勢が求められ、速攻で救済とはならないと思います。

そんな男たちが集まるのが「ファイト・クラブ」です。見るからに腕に覚えのありそうなゴロツキ風情の男たちが夜な夜なバーの地下に集まり、一対一の殴り合いを繰り広げる。素手での決闘に酔いしれる男たちからの喧騒に囲まれながら、殴り殴られ、鼻からはドス黒い血を流し、目の周りは青黒く腫れ上がり、唇は裂けてしゃべるごとに鮮血がほとばしる。これがただの喧嘩同好会だったら、暴走族同士の抗争と何ら変わりないチープな集まりになっていたところですが、明確に規則が定められ組織としてきちんと運営されていたからこそ、メンバーはあっという間に増えていき、メンバーがファイト・クラブに抱く忠誠心は確固としたものになっていったのです。その規則とは「口外しない」「必ず一対一で戦う」「一方的に殴り続けることは禁止」「ファイトの後は勝敗関係なく両者讃え合う」といったシンプルなもの。これにより、男たちは路地裏の喧嘩では味わうことのなかった爽快感、達成感、充足感を得ていきました。拳を交えた者同士が最後に抱き合って健闘を讃え合うシーンでは、両者ともに心からの笑顔を浮かべていたものです。彼らはファイトを通して、メンバー同士の結束、そして自分が自分であるという確信を固めていったのです。

この組織としてのファイト・クラブがどのような結末を迎えるかはここでは控えますが、もし僕がファイト・クラブに入会したら自傷行為は収まるのかと考えてみようと思います。攻撃する対象が自分自身から赤の他人となるわけですが、もともとファイト・クラブに魅力を感じる男というのは、たとえ本職がエリートサラリーマンでも単なるゴロツキであっても、自分の方向性を見いだせないという点で共通しています。だから、殴り合うことで互いの相手の存在を認め、さらに相手の相手としての自分自身を認める。自分の存在を主観的に認めることで、自分自身の重さに気づき、さらには自分を愛せるようになる。自傷行為を「自己破壊ではなく生存意欲の現れ」と定義するなら、痛みを知るという意味では結果的に同じことなんじゃないかと思います。ファイトを通して、それに気づくからこそ、相手と笑顔で抱き合えるのではないかとも思うのです。

とはいえ、僕はファイト・クラブに入会する度胸はありません。歯が抜けるほど殴られるのは嫌だし、顔にアザを作ってまで周りに構ってほしいとも思いません。結局僕は、痛みの限界を超える寸前でやめて、変化を怖れ現状を維持するに留めているだけなのです。こんなの自傷行為とすら言わないかもしれません。自己の存在確認、存在証明をしたいというのであれば、その手段は別に自分の頬を殴るだけではないはず。その何かを見つけ出して真剣に取り組む。それだって立派な「ファイト」じゃないか。とにかく僕は、自傷行為ではなく、そのファイトにこそ生存意欲を見出すことから始めないといけません。


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