ヒューゴの不思議な発明

(2011年 / アメリカ)

1930年代のパリ。家族を亡くし、駅の時計台に隠れ住むようになったひとりぼっちの少年ヒューゴ。唯一の友達は、亡き父が遺した壊れたままの“機械人形”。この思い出の品を修理して再生させることが、ヒューゴの夢であり生きる希望だった。

夢を追い続けるために必要なこと

子供の頃からずっと継続していることが、僕にあるかと思い浮かべてみましたが、ありませんでした。習い事やゲーム、漫画、いくつか浮かんできましたが、熱中していたり継続はしていたものの惰性で続けていたりと、ケースはさまざまでしたが、そのうちのどれも大人になったいまになっても続けているものはありません。あれほど好きだった漫画や小説も、あれだけハマったゲームも、いまとなっては振り返ってみて何とか思い出すレベルにまで、忘却の遥か彼方に追いやられていました。もちろん、年代が変わったのだから趣味の対象が変わったとか、そもそも子供向けだったから大人になって興味を失って当然という見方もあるでしょう。ただそれでも、他の人に視線を転じてみると、子供の頃から習っていたピアノで大成してプロとして活躍している人もいれば、漫画の蔵書何千冊を誇る自室で完全に個人的な世界に浸る人もいるし、小さい頃からそれ一筋で培ってきた知識を買われて専門家やコメンテーターとして活動している人もいます。性格や趣味趣向の問題だと言ってしまえばそれまでですが、僕はそういう人たちこそ自分の人生を謳歌しているのだろうなと羨ましくなってしまいます。

もちろん、親から強制的に情操教育として仕込まれた結果、その流れで大人になっても別の趣味を見つけることができなくなったり、その一芸のみでしか社会生活できなくなってしまう人もいるでしょう。その報酬で十分生きていけて自分の人生に不満がなければそれでもいいかとは思います。でも、生きがいを見いだせていないという観点から、結局は僕のようなタイプと心境は同じなのではないかと思います。他者を圧倒するスキルや芸を持っているにもかかわらず誇りと思えない、その一方で、人生において他者より秀でたものを何ひとつ持たず自分に自信が持てない。普通に暮らせて普通の人生を送っていればそれでいいというのであれば、それでもいいでしょう。しかし、社会生活を送るうえで、周りの人から認められたり必要とされる間柄、つまり親密なコミュニケーションを求めている人にとって、自身のアイデンティティを確立できないということは致命傷です。たとえ自分は他の人に寄りかかっていればいいと思っていたとしても、周りから必要とされていないので、気づかぬうちに孤立していたということが往々にして起こり得るのです。

この映画は、子供、大人(老人)の視点から捉えた生きがいを示唆的に描いた作品だと感じました。おそらく機械仕掛けの人形(現代風にいうとロボット)は、子供にとって好奇心の対象という面が強かったと思います。彼が成長していくに従って、さらに追求していくかもしれないし、途端に興味を失って一顧だにしなくなることも考えられます。ただ、彼、ヒューゴに近くには、機械仕掛け人形、映画による映像表現に一生を託した父親と老人ジョルジュがいました。ジョルジュは戦争によりすべてを灰燼に帰すことになっても、若い頃の夢を一生持ち続け、苦難に耐え、何とか復活させたい、あるいは誰かに継承してもらいと思い続けていた。そんなジョルジュがヒューゴに若い頃の夢を見出し、ヒューゴはジョルジュに将来の自分自身を重ね合わせたわけです。ご都合主義的な展開に見えなくないですが、得てして人生とは自分ひとりだけで築き上げていくのではなく、誰かから強い影響を受けながら磨いていくもの。今後、果たしてヒューゴがジョルジュの夢を引き継いていくのかは不明ですが、僕はこうした出会いが羨ましく見えて仕方がないのです。


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