この道は母へとつづく

(2005年 / ロシア)

ロシアの辺境にある孤児院で育った6歳の少年ワーニャは、幸運にも裕福なイタリア人夫婦の養子に選ばれる。しかし、ある日、すでに養子に引き取られていった友達の母親が突然現れたことで、彼の心は大きく揺らぐ。

映画ファンにとっての母もの映画

やはり母ものは鉄板です。我が子を思う母のいたいけな姿を活写した作品はもちろん、まだ小学校にも上がっていない幼い子供が見ず知らずの土地まで母親を探しに旅をする話だなんて、聞いただけでも涙腺が緩くなるのが人情というものでしょう。なぜそんなにまで母親をテーマにした作品が受けるのかというと、要するに、ほとんどの人が幼児期に感じた「母性愛」というものが大人になってもずっと記憶に残っているからです。では、その母性愛とは何かというと、女性が生まれついて持った「母性本能」から生じる愛情表現のことで、つまり自分が腹を痛めて産んだ子を守り育てていこうという慈愛のこと。たとえその子がどんなにグズでノロマだったとしても、母親にとってその子は何も替えられない存在なので可愛くて仕方がない。こうした母性愛をふんだんに受けて育てられた子は、ほかの誰もが自分のことをバカにしても母親だけは笑顔を向けてくれる唯一の味方だと信じる。だから、人はいくつになっても母もののドラマを観るたびに記憶の中の母性愛を思い出して涙するのです。

「母さんが夜なべして手袋編んでくれた♪」という歌がありますが、これが大きくの人の心を打ったという話には納得です。こうした人たちの心理には、母とは我が子が何事もなく無事でいてくれることだけを願い我が身を犠牲にして守り抜こうとする存在だという共通見解があり、おそらく誰もがそうした母親の姿を実際に見ているのだろうと思います。だから、母ものは受けるのです。視聴率低下にあえいだテレビ局が起死回生で打つ策が母もののドラマだという話を聞いたことがありますが、これはもう反則だ何だというより、人間の本能だから仕方がないのでしょう。母ものならどんなにベタな内容だったとしても、必ず観てくれる人がいるし(それも一定数以上)、必ず感動してくれて「いいドラマだった」と口コミしてくれるわけですから。ちなみに、母もの作品に胸を揺さぶられるのが圧倒的に男性だというのは男性は基本的にマザコンだからという通説がありますが、マザコンとは単なる母親の過保護による産物。したがって、マザコンが感じる母性愛は、ここでいう母性愛とは様相を異にしているはずです。

では、僕がこの映画を観て泣いた、もしくは感動したのかというと、正直言わせてもらうと「観て得られるものは何もありませんでした」。別に、僕が母性愛とは無関係に人生を送ってきたとか、肉親の愛情を何とも思わない人非人だからでもなく、純粋な映画ファンの立場として、意外なところから感動や驚きを受けるシナリオの妙味というものが感じられない、こうした教育ビデオ的な作品というのはどうも映画を観た気分になれないからです。もちろん、話題作の割には淡白だったり前半で盛り上げておきながら尻すぼみだったりする映画は掃いて捨てるほど観てきました。でも、そういう映画には少なくとも「きっと面白くなる」という期待がありました。でも、母ものにはそれがありません。そのほとんどが大どんでん返しなどあり得ない保証されたストーリーです。なぜなら、このジャンルの作品は、観る人から「絶対泣かせてくれ」という圧倒的なプレッシャーを受けることになるので、どう転んでも似たような内容、つまり幼児期に受けた母性愛を思い起こさせる内容にしなければならないのです。それで一定の成功が保証されるのだからそれでいいという話です。今回僕は確信犯的に(感動しないことをわかった上で)この映画を観たわけですが、それでも「最後の最後で映画ファンを僕をうならせる結末が待っている」と期待し続けました。結局、期待通りではなかったということは、母ものドラマファンの方にはこれ以上ない作品だということです。


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