この世界の片隅に

(2016年 / 日本)

戦時下の1944年2月。18歳のすずは、突然の縁談で軍港の街・呉へお嫁に行くことに。見知らぬ土地で、海軍勤務の文官・周作の妻となったすずの日々が始まった。

戦争映画のスタンダートとは

まず率直に言いますが、この映画を観終わった直後に感じたのは、ちょっとした違和感でした。具体的にどのような違和感だったのかというと、観る前にイメージしていた内容と異なっていたというより、こうした作風にすべきではなかったのではと批判する気持ちに近いです。「戦争」という人間同士の殺し合いを合法化した政治ゲームにおいては、こじつけの正義がまかり通り、とばっちりを受けた相手方が悪のアイコンにされ完膚なきまでに叩きのめされます。笑うのは特定企業とその利権を持つ政治家くらいで、正義の鉄槌を振るっているはずの軍人は敵味方問わず過重なストレスにさらされるだけ。民間人はいちばん弱い立場に置かれ、敵軍の迫害に怯えるか、マスメディアからの大本営発表に狂喜乱舞させられるかのどちらかです。大東亜戦争の結果についてはことさら語るまでもないでしょう。戦後、この戦争は「過ちを繰り返さない」という枕詞のもと、ただひたすら日本人に反省を促す映像や書籍が量産されました。国が敗北して他国の統治下に置かれたことはそっちのけで、誤解を恐れずに言えば、大切な人を失った、守りきれなかったという一個人の体験談に落とし込まれてしまった。やるなら真面目に戦争論を語れと言いたいわけではありませんが、敗戦の重みがますます霞んでいく象徴のような映画だったという印象です。

ほのぼのとした絵のタッチ、間の抜けたようなキャラの演出、時折差し込まれるメルヘンチックな描写。悲惨な状況の中でも辛い現実と向き合っても、みんなで助け合って乗り越え、笑顔のある一家の団らんは変わらないとか、そういうことは伝わってきました。僕は原作を読んだことはないし、どういった経緯で世に出た作品なのかも知りません。一方、「火垂るの墓」や「はだしのゲン」は、小学生の頃に何度か見せられるとなく見ましたが、包帯を巻かれた血まみれの人や真っ黒に焼け焦げた人の描写がいまも鮮明に残っていて、思い出すたびに嫌悪感を引き起こすためちょっとしたトラウマになっていると思います。おそらく僕と同じ作品を観て同じ感情抱いた人なら、きっと同じことを思うでしょう。「過ちを繰り返さない」と。残酷な映像や体験談が独り歩きしているのは、いわゆる南京大虐殺とか従軍慰安婦とかがそうですが、僕ら日本人が原爆や空襲の被害を見聞きしてアメリカに対して怒ることがないのは、日本が戦争に負けたからです。たとえば、「二〇三高地」や「日本海海戦」「坂の上の雲」などを観てください。日本が勝った戦争に関しては反省は湧きませんし、そもそも悲観的に描かれてはいません(203高地はまた別ですが)。残酷な描写の必要性は感じませんが、正直言ってこの作品での戦争の扱いは単なるアクシデントだったのではと思います。前述の「火垂るの墓」などをもっとマイルドにしたライト版に思えて仕方ありませんでした。

「もし戦争に敗れていたら私は戦争犯罪人として裁かれていただろう。幸運なことにわれわれは勝者になった」。対日戦を率いたカーチス・ルメイの言葉です。彼は、東京大空襲、名古屋や大阪の空襲、八幡製鉄所爆撃、その他地方都市の空襲など日本の焦土化作戦を立案。非戦闘員を対象にした攻撃により、多くの非戦闘員が犠牲になり「皆殺しのルメイ」「鬼畜ルメイ」と日本人から恐れられたそうです。勝てば官軍、という言葉がありますが、まさにそれを地で行く発言です。だから、アメリカ版火垂るの墓はありません。毎年8月、地上波で終戦特集を組んだり原爆投下を悔やむ映画を放送したりすることはありません(おそらく)。さらに、アメリカ国民に「過ちを繰り返さない」という気持ちを促す動きもありません。なぜなら、アメリカは戦争に勝ったからです。日本が日露戦争の実質的勝利にいまも酔うのと同じです。アメリカにとっての東京大空襲や原爆が、真珠湾襲撃や9.11なのでしょう。違うのは、アメリカがそれらを「過ちを繰り返さない」と受け身に捉えているかというとそうではなく、その後の太平洋戦争、アフガン戦争で勝利しているため愛国心鼓舞の源泉となっていることです。日本はいつまで「過ち」を反省し続けないといけないのでしょうか。アメリカの例に倣うなら、もう一度戦争して勝つしかないではないですか。

戦争を語り継ぐことは大事です。僕は戦争体験者ではありませんが、これまでさまざまな実映像や書籍を通してあの戦争について触れてきたつもりです。戦争の経緯、快進撃からの転落、機動部隊壊滅、特攻隊、空襲、原爆、そして降伏まで、石油ルートを抑えられ物資がなくなっても奮戦し、指揮者の稚拙な判断ミスで失敗が相次ぐも、アメリカという大国と4年半も対峙し続けた歴史は、単に「過ち」のひと言では伝えきれないと思っています。そんな中、「語り継ぐ」こと自体が目的になってしまっていないでしょうか。当時は食べるものもなく貴重品は軍に供出しなければならなかった検閲が厳しかったということが言いたいのであれば、戦争は副次的な要素であっていい。でもそうすると、主客転倒になるということでしょうか。残念ながら、この映画から何も伝わってきませんでした。僕が冒頭で「違和感」と表現したのはそれです。国が負けても一家揃って笑って暮らせていける。わからなくありません。記録映画ではないのでハッピーエンドでもいいでしょう。でも、戦争に負けたという事実の余韻がそれではあまりに亡国的ではないでしょうか。トラウマになるくらいグロテスクな描写を流して平和の有り難みを訴えろとは言いませんが、この作風だったら戦間期あたりの庶民のレトロな暮らしを描いてくれたほうが良かった。今後、この作品が戦争映画のスタンダートになっていくのでしょうか。そしてこれからも似たようなタッチの作品が発表され続けていくのでしょうか。僕はそちらのほうに嫌悪感を抱いてしまいます。


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