マシンガン・プリーチャー

(2011年 / アメリカ)

元麻薬売人のサム・チルダースは殺人未遂を犯した事をきっかけに悪の道から抜け出し、キリスト教徒となった。そして、家族と訪れた教会で、アフリカでのボランティア活動を決意する。しかし、現地でサムが目にしたのは、村を焼き払い、子供をさらって少年兵に育て上げる『神の抵抗軍』というゲリラの横暴だった。

正義は本当にあるのだろうか

マシンガン・プリーチャー

「神のために」「神の思し召しにより」「神がそうお望みだから」。こういう枕詞を付ければ、宗教なんて一瞬で攻撃集団に変わります。特に、世界三大宗教と呼ばれる各宗教は、世界地図をたびたび塗り替えるほど侵略と支配を繰り返し、血で血を洗う歴史をつくりあげてきました。日本の歴史教科書は西洋(アメリカ)寄りなので、キリスト教が正義の宗教団体として描かれ、神聖なるキリスト教の地で略奪の限りを尽くす暴虐なイスラム教徒との抗争を、あくまでも敬虔なるキリスト教徒の勇気ある行動として教えられます。代表的なのは十字軍ですね。しかし、この十字軍だって、初めの何回かはイスラム教徒に支配された聖地イェルサレムを純粋に取り戻すための戦いでしたが、4回目あたりではコンスタンティノープルで略奪しまくって終わったり、結局何ら成果もなく同士割れして終結したこともあったりで、「神のために」という謳い文句がいかに表層的なものがわかるというものです。

冷戦が終わると、国と国との純粋な熱戦から様相を異にし、民族あるいは宗教間の争いがクローズアップされます。結局どの戦争もそうなのですが、イラン・イラク戦争をはじめ、湾岸戦争、イラク戦争など、中東を舞台にした戦争は、必ず背後で石油利権獲得を企図した西側(主にアメリカ)が糸を引いいていました。その際に利用されたフレーズは、「神のために」ではなく、「イスラム教過激派掃討」でした。アメリカが動いているということは、黒幕がイスラエルであることは明らかで、中東のパレスチナやレバノン、シリアからのテロの報復であることが裏の目的だったりします。僕らが知っているキリスト教徒の主旨は、「右の頬をぶたれたら、左の頬を差し出す」といった恭順、寛容の精神であって、「目には目を歯には歯を」というバビロン法典的なアグレッシブなものではなかったはず。だからこそ、マスメディアは、イスラム教過激派がいかに過激であるかを言挙げし、アメリカが戦争を起こすのはやむなしという空気を世論に浸透させていくのでしょう。

その中でもっとも効果的だったのが、イスラム教の「聖戦(ジハード)」。アッラーの教えを守るための戦いという漠然としたイメージのもと、そこから拡大解釈して、神のためなら手段を選ばない殺戮者たちとすり替えられてしまった。こうなってしまったら、誰がジハードの恐怖を止められるのかとなり、ではキリスト教徒(アメリカ)に正義の戦いをしてもらいましょうとなるわけです。随分と勝手のいい話ですが、大半の日本人はそう信じているのではないでしょうか。近年、ローマ法王が「暴力が神の名で正当化されている」と発言した通り、いまだに「宗教が憎しみを運ぶ手段」となっていることは否定できません。ただ、特定の宗教のみが正義で、もう一方が悪であるという決め付けは、イスラム教過激派という言葉が氾濫している一方、キリスト教徒過激派という言葉はまったく耳にしないことを考えてみれば、それがいかに偏っているかがわかるというものです。

銃を持って戦うキリスト教徒は、つねに正義なのでしょうか。この映画を通して、そのことに思索をめぐらしてみると、むしろ神の正義を否定するための作品だったという考えに至りました。刑務所帰りで荒くれ者の主人公サムは、ある日神のための奉仕することに喜びを見出し教会を作って宗教活動を始める。ボランティア活動で訪れたアフリカで、部族間の争いを目の当たりにし、誘拐された子供たちを引き取り現地に建てた孤児院で育てることにする。しかし、幾度となくゲリラに孤児院や教会は焼き払われ、怒り狂ったサムはマシンガンを手にする。アメリカに戻って寄付を募るも一向に集まらず、サムは教会で「必要なのは狼だ!」と息巻く。彼はいまもアフリカでマシンガンを手に、宗教活動をしているといいます。

もし主人公がイスラム教徒だったら、「イスラム教過激派の誕生」とタイトルを付けるのではないでしょうか。銃を持って異教徒と戦うのが単純に正義だとするなら、日本のニュースで報道されるイスラム教過激派だって正義ではないでしょうか。どこかの政党のように、争いごとは対話で解決するなんて穏やかな解決策が通用すると思い込んでいる僕らの目には、こうした宗教間の諍いはオウム真理教のサリン事件のようにしか映らないのかもしれません。つまり、敬虔な宗教人は、単に宗教に心酔した危険な人と見てしまう。宗教に関しての平衡感覚を失った日本人だからこそ、隣国から領土を侵略されても遺憾の意だけで終わらせてしまう。これは正義ではありません。国際社会にて、自国の領土であるという正当性を主張し、認めさせる行動をしないといけないのです。日本が何もしないうちに、隣国は日本の大東亜戦争における虚偽の残虐行為を垂れ流し国際社会に信じこませている。このままだと、いやもう手遅れかもしれませんが、日本が強く正当性を主張するようになったら、国際社会は「日本の過激派が竹槍を持って乗り込んでくる」と思い込んでしまうかもしれません。

「もし自分の家族や友人が誘拐されたとして、救助に向かう有志の人に何を頼むか。決して犯人を傷つけないでくれと頼むかね」という主旨のことをサムが言っていました。本当の正義なんてない。それを純粋に信じているのは、実は敬虔なキリスト教徒やイスラム教徒、仏教徒などではなく、日本人だけなのかもしれない。そう感じました。


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