マイケル

(1996年 / アメリカ)

シカゴの一流紙の敏腕記者から三流タブロイド紙の記者に落ちぶれたフランクは、モルト編集長の命を受けて相棒のヒューイ、新人記者のドロシー、コラム犬のスパーキーと共にアイオワ州に向かった。「うちに天使がいるので見に来てほしい」という投書が寄せられたためだ。

大天使ミカエルがトラボルタに憑依

アメリカだけに限りませんが、生まれた子に、宗教にゆかりのある名前をつけるケースが多くあります。たとえば、キリスト教徒だったらジョン、ピーター、ポール、マリア、キャサリン、モニカといった具合。あと、イスラム教徒とかヒンドゥー教徒にも同じ傾向があると思われます。いずれも信仰心の厚い、あるいは宗教が国柄を表している(こんなふうに表現してしまうのも日本人らしいのですが)国または地域だからこその風習だと思います。

では、日本はどうかというと、仏教あるいは神道的なニュアンスが込められていることはあるにせよ、仏陀とか釈迦、薬師如来、またはイザナギ、イザナミ、スサノオというようにストレートに名付けられることはまずないでしょう。もしそういう名前を付けられたとしたら、神様仏様に対して罰当たりだというより、キラキラネームだとか揶揄されるに決まっています。これに対し、キリスト教の家ではイサク、ルカなどを当て字で名付けたり、新興宗教の教祖の名をそのままあたえるというケースがありますが、日本の傾向としては例外の範疇に入ると思います。

こうした日本的な慣習に従ったのか、僕の名前には宗教的ニュアンスはありません。僕の家は仏教だけど僕自身は神道により関心があります。だからといって、神道にあやかった名前が欲しいとは思わないし、また自分の子にそういった名前をつけるつもりもありません。突飛な名前にするといじめられるのが怖いというより、そもそもこれが日本の文化なのだから別に欧米やイスラム圏に倣う必要はないと考えるからです。

さて、この映画「マイケル」も、名前に映画の筋が込められています。マイケル(Michael)はミカエルという天使に由来し、天使軍団を率いる大天使だとのことです。僕はキリスト教徒ではないしその教義についてまったくの無知なので、「そうなんですね」と流す程度です。したがって、こういう予備知識、つまり敬虔なキリスト教徒であれば、「マイケル」と聞いただけで「あぁ、あのマイケル(ミカエル)ね」となるわけだと思います。道を歩いているときお地蔵さんにちょこっと会釈するのが日本ならではであるように、キリスト教圏では聖書になぞらえたストーリーは日常生活と直結しているわけです。

映画を観ていて面白いのは、その土地の文化や慣習が実にストレートに描かれているということです。世界市場を狙って宗教色を出さない作品もありますが、そういった無味無臭のものより、多少理解が及ばなくともエンターテイメントとしても異文化理解としても楽しめる映画のほうが得した気分になれます。海外で評価されている日本映画が日本独特の風習を描いたものだったことを思い返してみれば、彼らのとっての外国映画の見方というのがわかるんじゃないかと思います。


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