あしたのパスタはアルデンテ

(2010年 / イタリア)

ローマに住む作家志望の青年トンマーゾは南イタリアで老舗パスタ会社を営むカントーネ家の次男。兄アントニオの新社長就任で共同経営者と一族の晩餐会が開かれる。トンマーゾはディナーの席で、家族に黙っていた3つの秘密を告白しようと決心するが―。

価値観をそのまま継承できるか

あしたのパスタはアルデンテ

いま現在の社会において、「親が決めた通りの人生を歩む」という考え方は、相当古臭い価値観として広く認識されていると思います。「親が決めた通り」というのは、武士の息子は武士、染物屋の息子は染物屋、米屋の息子は米屋といった感じで、先祖代々、ひいては社会全体が血縁一統で成り立っていた社会的慣習のこと。要するに、土地と地主に縛られていた小作農は除いて、商家や武家の子が自らの意志あるいは親への反発からまったく関連のなかった職業に就く例は考えられなかったわけです(もちろん、お家取り潰しで武家から行商人にならざるを得なくなったり、類な才能で浮世絵師になったり、怪力を武器に力士になったりといった例はあるでしょうが)。その当時はそれが当然であったため、自らの家を守るため家業を受け継ぎ、後世に伝えていくという伝統が、有名な大名だけでなく、無名の小さな一族でも行われていました。これは推測ではありますが、「親が決めた通りの人生を歩む」ことはむしろ誇りだったのかもしれません。いまでは共感しづらい話になってしまっていますが。

特に、僕のような東京に住んでいる人には、この違和感は強いかもしれません。都市部は顕著で、地縁という縛りはもうほとんどなく、一人暮らしがほとんどで隣の部屋にどういう人が住んでいるのか知らない。エントランスですれ違ったら会釈する程度。東京自体、日本全国からの寄り合い所帯となっているため、台東区や葛飾区などの下町と呼ばれる地域を除けば、どこに行っても同じような環境が広がっています。コンビニはどこにでもある、でも人情はどこにもない。それでも東京に人口一点集中していく現象はとどまることなく、昨今はますます一極化が進んでいます。東京が人を引きつける力とは一体何でしょう。もちろん、就業の機会が多いとか大都会で名を挙げたいというのはあるでしょう。その人がどういうバックグラウンドを背負っているかはそれぞれですが、やはり東京は、「親が決めた通りの人生」から目を背けた先の到達点だからかもしれません。理由はなんとでもつくれます。進学のため就職のため夢をかなえるため。その結末はどうでしょう。結局、何事もなさず惰性で東京に居続ける、というパターンが多いような気がします。

この映画に即して言えば、たとえ同性愛者であったとしても、「親が決めた通りの人生を歩む」という宿命に従うのではあれば問題はないはず。家業を継ぎ、後世に伝えていくという役割を担っていければ家としてはそれでいいわけです(この点、世継ぎをもうけるという意味で微妙ですが)。でも、そうは簡単にいきません。「親が決めた通り」とは、たとえば代々続く酒屋を継いでほしいとか、自身が果たせなかった医者や弁護士になってほしいといった額面通りの要望だけでなく、そこには親のエゴをも引き継ぐということです。単純に家業を継ぐにしても、どこかしらで先代(親)の偏見によって次代(子)が矯正されるということが往々にしてあり、それに逸脱しようものなら勘当を食らうほどの仕打ちを受けることになります。この映画なら、同性愛は許せないという価値観でしょう。おそらく、何百年も続く文化や伝統とは、さまざまなエゴが折り重なっているものだと思うし、それがあってこその個性的な輝きと言えるのでしょう。でも、個人レベルでの異質を受け継ぐことほど辛いものはありません。だから、伝統にも新味を加えることが必要。ま、別に同性愛じゃなくてもいいわけだけど。



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