私の中のあなた

(2009年 / アメリカ)

アナ、11歳。白血病の姉・ケイトを救うために、ドナーとして“創られて”生まれてきた。ケイトに生きて欲しい―その想いは、家族みんな同じだと疑わなかった母・サラは、ある日信じられない知らせを受ける。「もう、姉のために手術を受けるのは嫌。自分の体は、自分で守りたい」とアナが両親を訴えたのだ。

本当に代わってあげたいと思える人はいますか

僕は生まれてこの方、一度も大きな病気をしたことがなく、当然のことながら入院したこともありません。そもそも鼻血を出したことがないという時点で、超健康優良児というより単に物理的な争いを避けてきた軟弱者と捉えられるかもしれませんが(あながち間違っていません)、風邪はしょっちゅう引くものの手術が必要な大病やリハビリに専念しなければならないほどの不自由とは無縁な人生を送って来られています。僕自身、どちらかと言うとひ弱体質だと思っており、体が丈夫だとか病気を受け付けない健康体だとか実感したことはないのですが、それはともかく病院とあまり縁のない肉体をくれた両親には感謝しないといけませんね。そういえば、父方母方ともに難病に苦しんでいる親戚はひとりもいないし、またつねに包帯巻いていたり松葉杖をついているような大怪我をする人も不思議とおらず、みな健康で長生きな家系です。代々早死した人もいないようで、亡くなった原因は長寿による老衰によって引き起こされた病だったそうです。ついちょっと前、90才間近で亡くなったおじいちゃんもそうでした。そうすると、僕も家系に倣い、80、90才くらいまで長生きするのでしょうか。交通事故とか通り魔とかの不可抗力的なアクシデントに巻き込まれて命を落としたりはせず、大往生を遂げられるのでしょうか。楽観的に考えればそうなるのかもしれません。

こんなふうに、自分の健康のことを特に不安視することなく漠然と考えていられるということは、そうでない人からしてみれば非常に贅沢なことなんだと思います。そうでない人というのは、生まれつき難病を抱えていて明日生きられるかもわからない人や、大事故に巻き込まれて体の大半の機能を失い生命維持装置なしでは生きられない人、寝たきりで起き上がれる見込みがない人、大病や大怪我に煩わされずとも持病や体の自由が利かない人などのこと。つまり、簡単に言ってしまえば「健康」でない人のこと。人は誰しも何かしらの不便は抱えていますが、要するに、普通が食事でき、普通に仕事でき、普通に人とコミュニケーションできる人のことを「健康」と言っていいのであれば、それがしたくともできない人は僕のことを羨ましいと思ってくれているはずです。僕が普通に食べたいものを食べ、乗りたい乗り物に乗って行きたい場所に行き、会いたい人と会って好きなだけ飲みながら笑い転げる。こんなありきたりのことでも「できれば代わってほしい」と切望している人がいるのです。僕は僕で、これはたとえがおかしいかもしれませんが、息を切らして苦しそうな駅伝の選手を見ると、条件反射的に「僕の少しも疲れていない肺を一瞬だけでも使わせてあげたい」と思ったりします。でも、こんなことできるはずがありません。たった一日だけでも健康な人と寝たきりの人が体を交換することはできないし、逆に、消耗している人に僕の健康な体を貸してあげるなんてこともできないのです。

この映画は、白血病という難病に苦しむ姉ケイトとその妹アナの物語。抗がん剤の副作用ですっかり髪の毛が抜け落ち、出血や嘔吐を繰り返し日に日に弱っていくケイト。アナはそんな姉を愛し友だちのように接しているのですが、実はアナはケイトに臍帯血や骨髄を提供するドナーとして誕生したという経緯を苦痛とし、もうこんな毎日をやめてもらうべく有名な弁護士を雇って親を訴えます。白血球の血液型であるHLA型がドナーと移植対象患者との間で適合しないと拒絶反応を起こします。HLA型は両親から半分ずつ遺伝するため通常親子間では適合しませんが、同父母の兄弟姉妹間で25%の確率で適合して移植が可能になるのだそうです。たとえケイトとアナの両親の本心はそうでないとしても、アナはケイトの“スペアパーツ”でしかないのです。ケイトを延命させるためにアナは養殖されたと言っていいかもしれません。だから、アナは「自由になりたい」と言って親を訴えました。愛する姉といえども、いつまで生きていられるかわからない姉という重い重い足枷を引きずりながら生きていくのはもうたくさん。青春はもう二度とやってこない。アナの決断が家族の絆を引き裂いていきます。

「できれば代わってほしい」「できれば代わってあげたい」。これがケイトとアナの関係でした。ふたりはこの相互補完の関係を生まれた頃からずっと続けてきて、肉体的にも心情的にも不可分かつ唯一無二の存在だったのです。ふたりで一方を支え合い一方を励まし合うという関係は、おそらく家族や兄弟の関係よりも強かったのではないかと思います。なにせ、ふたりでひとりなのですから。したがって、一方(ケイト)が限界を悟ったら、他方(アナ)と共倒れを回避するため、つまり他方を生かすため、その一方は決断をしなければならない。それこそが、アナに「自由になりたい」と血の涙を流させながら実の親を訴えることを促した現実だったのです。代わってもらっていたケイトに対し、代わってあげる立場だったアナ。損な役回りを押し付けられたかに見えるアナですが、彼女はふたりの関係が一方通行的だったとは思っていないでしょう。なぜなら、アナは自分が与えたものと同じくらい、いやもっと多くのものをケイトから受け取ったのです。身近にいる大切な存在が与えてくれる影響力の大きさを気づかせてくれる素晴らしい映画でした。


閲覧ありがとうございます。クリックしていただけると励みになります。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください