ランボー/怒りの脱出

(1985年 / アメリカ)

刑務所を釈放されM・I・A (戦闘中行方不明者)調査任務を背負い、ベトナムへと派遣されたランボー。ところが司令部に裏切られ、米軍、東側ゲリラ部隊、あらゆるものを敵に回すはめに。

ランボーの怒りは俺たちの怒り

ランボー2

激しい感情に身悶えしたとき、必ず観たくなる映画があります。もちろん、その感情の種類によって観る映画は異なり、羽が生えたように心躍るような気分だったらこれ、失意のどん底に落とされた時はこれ、のんびりと何も難しいことを考えたくない時はこれ、といった感じで、実際に観るかどうかは別として特定の映画がパッと浮かんでくるものです。そんな中で、腹の底から湧き出てくるドス黒い怒りに打ち震えたときに観たくなるのが、この映画です。理由は簡単です。ランボーも僕と同じくらい怒るから。だけど、怒り狂い復讐に燃えるランボーが重火器を手に暴れ回るさまを見て、単純にカタルシスを得るためだけに観てしまいたくなるのかというと、最近そうじゃないのではと思うようになりました。というのも、怒りを発しつつ何かを求め続けるランボーに、僕自身の内面にうごめく何かと重ね合わせてしまうからだと思うからです。

憎いものを誅殺するとか破壊するとか征服するとかが直接の目的ではなく、それらを打破した先につながっている何かを追い求める。その何かというのは、困難を乗り越えたボーナスステージ的なご褒美などではない、さらに言えば、最終的に手にすることができる「終着点」でもなく、怒りの発端となった根源的な理由に正当性を与えるもの。なんだか言ってる僕自身こんがらがってきそうですが、つまりは、一見ただの暴力沙汰に見える怒りの発露が、その闘っている理由が、自分自身の存在意義であると認めることだと思うのです。それは思春期のガキが見せる自己顕示欲なんていう安っぽい感情などではなく、「公憤」こそがそれにふさわしい。だから、僕らは「義挙」「返報」「復仇」という言葉に無意識のうちに共感し、なにやら胸の底からこみ上げてくるものを感じるのではないでしょうか。

ランボーは普段は物静かな男で、任務でも基本的に冷静です。でも、内に秘めた激情はつねにうごめいていて、それを発現すべきシーンになったら一気に爆発させます。そのシーンとは、ランボー個人の恨みを晴らすのではなく、(アメリカ)国民が国民としての権利を国によって濫用されていることに対して怒る場面です。「俺たちが国を愛したように、国も俺たちを愛してほしい」という名台詞が示すように、ランボーの怒りは、一個人を超えたもっと大きなものに向けられています。

そう考えてみると、僕が超絶に苛立った時にランボーを通して見ているものとは、理不尽にすぎる仕打ちを受けた何らかの組織体だとしても間違いではないでしょう。いや、むしろそれで間違いない。いじめっ子よりもいじめを放置している学校に怒りを感じ、不当に高い額の税金を要求した役人よりも不正を見て見ぬふりをする役所に怒りを感じる。幼い子供ならいざしらず、世間に揉まれ成熟した大人だったらそういう視点で物を見るはずです。別に僕が成熟した大人だと言いたいわけではないですが、悪者をつくり出している根源というものは必ず存在するわけで、それを打ち砕かないかぎり、心の平穏は訪れない。このロジックが朧気ながらもわかる気がするため、僕はどうしてもランボーに僕自身の思いを託すのです。本当はそんなにしょっちゅうあってはならないことを感じつつ。


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