人生、ここにあり!

(2008年 / イタリア)

1983年のイタリア・ミラノ。型破りな活動で労働組合を追い出された熱血男・ネッロが行き着いた先は、精神病院の閉鎖によって社会に出ることになった元患者たちの協同組合だった。一筋縄ではいかない面々とネッロはドタバタなトラブルを巻き起こしながら、無謀ともいえる事業に突っ走っていくが―。

見下されているのはどっちだ

これまでの人生において何度も転職を繰り返してきたものの、その都度やりたい仕事はある程度はっきりしていたので、仕事を選ぶ際には、この分野でしか働きたくない、この分野でキャリアを積んで新たな職種で活かしたいという決断で迷うことはありませんでした。その逆もしかりで、こういう業種では絶対に働きたくない、こういう仕事は絶対に自分にプラスにならない、または向いてないからやりたくないというのもはっきりしていて、その分野で働いている人を見ると頭が下がる思いがすると同時に、不謹慎ではありますが、よくやってられるよと思ったりもしてしまいます。そうした業種というのが、介護あるいは障害者施設の職員。自分自身のこともろくに世話できない僕が、他人の、しかも老齢のため体の自由が効かなかったり健常者と同じことをするのが難しい人たちの世話をすることなんて到底できるはずがないというのが表向きの理由です。

しかし、本音を言ってしまうと、そうした人たちと同じレベルになって毎日を送るということは、僕自身の人間性のレベルをも下げることにつながり、僕自身飛躍する可能性そのものを潰してしまうという諦念を伴う状況を覚悟しなければならないと考えるからです。

もちろんこれが、そもそも僕の無分別であること以前に、大変な誤解であり心得違いであることはわかっています。それに、現在のところ介護すべき近親者がいないことから要介護者の身の回りの世話をすることの重要性と、いつかは自分自身も介護が必要となる日が来ることを体感として理解していないことも承知しています。ですが、朝起きて会社に行って仕事して帰ってくるという、ごく普通に生活していたところ、いきなり明日から介護施設(障害者施設)に出向だと言われたら誰だって面食らうのではないでしょうか。地方の子会社や倒産寸前の会社に出向させられたにしても、結果さえ残せば元の会社に戻されるでしょうし、その会社の重役として羽振りを利かせられるようになるでしょう。ですが、高齢者や障害者の世話となると話は別。たとえ期間限定で元の会社に戻れるとしても、僕だったら超重量級の足枷をはめられたと考え速攻で辞めてしまうことでしょう。

しかし、高齢者と言っても、僕の倍以上もの長い間生きてこられた人生の達人であることに変わりなく、僕の知らないことや生きる上での知恵をたくさんご存知でいらっしゃるはず。老化により五体満足ではなくなり思考や言語に衰弱が見られはするものの、歴史の生き字引として僕らが直接伝え聞かねばならないことをたくさん経験されてきた人たちです。また、障害者にしても、僕らがまったく気づかないことを敏感に察知し芸術家と見まごう絵を描いてしまったり、熟練の職人と遜色ない見事な作品を手がけてしまったり、世間の常識に拘泥されている健常者など及びもつかない可能性を秘めています。もちろん、すべてがそうとは限りませんが、僕が心情的に見下している人たちとは、実は僕など彼らの足元にも及ばない人たちであることだってあるのです。これは一般社会でも同じことだと思います。この人きっとすごいんだろうなと思ってたらそれほどでもなかったり、逆にこいつなら勝てると思い込んでいたら恥ずかしい目に遭ったり……。

この映画は精神病者にスポットを当てた作品ですが、世間からは一段下に見られてはいても、まっすぐに自分自身を見つめ、いつしかどんな健常者でも成し得なかった事業を成功に導いてしまうという可能性が描かれています。僕自身、幸運にも健常者としていままで生きてきましたが、本当に僕は健常者なのだろうかと疑問を抱くようになりました。自分より劣った人を見たら根拠の薄い下衆な優越感に浸り、逆に自分より有能な人を見るとたちまち深い自己嫌悪に陥る。介護されるべき、あるいは病院の世話になるのはどちらのほうなのだろうかと、この映画を観終わってからしばし考えこんでしまいました。


閲覧ありがとうございます。クリックしていただけると励みになります。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください