世界にひとつのプレイブック

(2012年 / アメリカ)

妻の浮気が原因で心のバランスを崩し、すべてを失くしたパット。事故で夫を亡くし、心に傷を抱えたティファニー。人生の希望の光を取り戻すための、ふたりの挑戦が始まった。

傷を舐め合うより唾を飛ばし合う関係

妻の浮気現場を目撃したことで精神を病んでしまったパット。夫を交通事故で亡くしたティファニー。この映画は、心に傷を負った者同士が出会い、ぶつかり合いながらも互いに距離を縮めていく話です。と言ってしまえば、映画らしいロマンティックな展開を期待してしまうのですが、実際にそううまくいくものでしょうか。うまくいくというのは、もちろん、傷心のふたりが互いを慰め合い、寄り添い合って、いい意味での共依存関係を築いていきながら互いの傷を癒やしていくということでしょう。同じような境遇、立場、心境の人が側にいるということは、自分はひとりではないという安心感をもたらし、どんなに傷が深くても一緒に乗り越えていこうという強い力をあたえてくれるからです。わかり合える人がいるというのは、実に心強いものです。ただ、単に傷を舐め合っているだけという見方もできます。ふたりが苦しみを乗り越えてハッピーエンドになれば言うことありませんが、一方が回復すれば他方が頼りなく見え、両者とも回復しても違和感が生じ、関係は一瞬にして終わってしまうことだって考えられます。

ちょっと想像してみてもらいたいのです。たとえば、足を骨折して病院に入院することになった。病室の隣のベッドには同じような年頃の異性が寝ていたとして、その人と恋愛をしたいと思うかということを。病室があるのが外科病棟なら、その異性が足の骨折じゃなくて、別の外傷でもいいです。「お互い大変ですね」と社交辞令的な挨拶はするでしょう。でも境遇が同じだからといって、その人を頼りに生きていこうとか、苦しみを共にしようとか思うでしょうか。そりゃ相手が美男美女だったら、そういうのを口実にして口説こうとはするかもしれませんけど。なお、僕の場合ですが、僕はとある疾患で定期的に病院に通っています。当然、待合室には僕と同じような悩みを抱えた患者さんをたくさん見かけますが、その中で、安心と同情と癒やしを求めて特定の患者と親身になりたいと思うことは一切ありません(たとえ超絶美人でも)。なぜなら、僕はその病気から抜け出したいからです。抜け出したいのに、同じ境遇の人と昵懇になってしまっては、僕は疾患を克服する自らのビジョンを失ってしまうと考えます。互いに傷を舐め合うことこそが安楽だと思いこんでしまうでしょう。

僕は医者でもないし専門家でもないし、ましてやハッピーエンドをもたらしてくれる恋愛の達人でもないです。でも、パットやティファニーのような心を病んだ人たちにとって、もっともしなくてはならないことは、男女の恋愛関係を深めていくことよりも、まず自分自身を蝕んでいる病と自ら向き合うことでしょう。特に、パットは双極性障害という症状を抱えています。これは気分が高まったり落ち込んだり躁状態とうつ状態を繰り返す病気のことで、気分が高ぶって誰かれかまわず話しかけたりまったく眠らずに動き回ったりする一方、一日中ゆううつな気分で眠れなくなったり無関心の状態が続きます(パットは躁状態が顕著)。ティファニーもパットほどではないにしても、セックス依存症に陥り、いつも不機嫌で気に入らないことがあると怒鳴り散らします。ふたりとも病院に監禁しなければならないほど重症ではないのですが、自分をそうさせている原因をわかっていながら直視せず、むしろ原因を取り除く必要はないと思っているフシがある。そんなふたりなので傷を舐め合うことすらできません。

映画なので予定調和なのは仕方ないですが、パットとティファニーはハッピーエンドを迎えます。いつもギクシャクしていて互いを認め合うなんてことはなかったふたりですが、もしかしたらそうした関係こそふたりにとっての特効薬だったのかもしれません。精神科医によるセラピーも傷を舐め合う底の薄い男女関係も必要なかった。この映画を通して、僕が抱える疾患を克服できるのは、かかりつけの病院ではないかもしれないと思った次第です。


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