主人公は僕だった

(2006年 / アメリカ)

毎日が変わり映えしない生活を送っていたハロルドにある日突然、‘声’がどこからともなく聴こえる。ハロルドの行動を同時進行で描写するその声は、どうやら彼の人生のストーリーを書いているらしい。そして、その声は「ハロルドは時期に死ぬ・・・」と。

主人公は物語の中だけの存在に限らない

主人公は僕だった

短編、長編に限らず、小説を書く際にしてはならないことがあります。それは、プロットを組み立てずに書き始めてしまうこと。プロットとは、簡単に言えば「物語の構成を示した設計図」のことで、人によっては詳細なあらすじと捉える場合もあります。もっと細かく定義すると、シーンごとに起きるイベントや登場人物同志のぶつかり合いの設定、起承転結または序破急(冒頭、ヤマ場、どんでん返し、結論)の明確化、文章に緩急をつける(物語にメリハリをつけて読者を飽きさせず引きつける)、因果律に気を配る(張り巡らせた伏線と結末との矛盾を避ける)などがあります。これらは小説執筆における基本的な技法であるので、盲従しすぎると、教科書的な展開になってしまい読者は途端に気づいて読むのをやめてしまうでしょう。で、何が問題なのかというと、そこに物語における決定的に必要な要素が欠けてしまうということ。「この物語の面白さは何か」「この物語の特徴はどこなのか」、つまり「作者が伝えたいことは何なのか」が失われてしまう可能性が高いのです。

僕はプロ小説家を目指して、執筆しては各コンクールに投稿していた時期があります。でも、ことごとく落選でした。文藝春秋とか有名なコンクールはもちろんのこと、地方主催のものや企業が出す単発のものでもダメでした。単に僕の力量不足ということもありますが、やはり執筆する前にプロットを明確にしていなかったことが最大の敗因だったと考えています(負け惜しみじゃないですけど)。とはいえ、まったくプロットを立てずに書き始めたわけではなく、登場人物の性格、おおまかなストーリー展開は構築してはいました。でも、実際書き始めると、それだけではまったく足りないことに気づきだします。登場人物がどのように立ち回り、どのようにぶつかり合い、どのように問題を解決していくのか、という展開がまったく書けないのです。脚本をつくる技法で「ハコ書き」というのがあり、シーンの並びと各シーンの簡単な内容をブロック化し、それら一つひとつを並び替えたりしながらストーリー展開を練っていくものです。僕はこれをやっていなかったため、冒頭部分からつまずくことになってしまったのです。

ある程度、登場人物の性格を決めてしまえば、あとは勝手に彼らが動いてくれて執筆はどんどん進んでいく、という話を聞くことがありますが、それは本物のプロにしかできない芸当です。素人がやったところで、完全に自己満足レベルの支離滅裂な作品になってしまうでしょう。一部の投稿型ウェブ小説サイトは言うまでもなく、実際出版されているライトノベルでも、小学生が書いたのではと思うほど、場当たり的で幼稚な描写が活字になっていたりします。需要があればそれでいいのかもしれませんが。とにかく、それ以来、執筆のきっかけをつかめなくなってしまった僕は、これからは読むことに専念し執筆のモチベーションを探るとの言い訳のもと、コンクールで新人賞を狙うことは中断してしまいました。

この映画を観て、たしかにそうだなと思ったのが、フィクションでもノンフィクションでも、ストーリーに出てくる人物は本物の人間である必要があるということ。映画の主人公であるハロルドは、本来であればどんな創作の主役にもなり得ないタイプですが、それでも人生のヤマがありタニがある。そこをうまく描写してラストにつなげれば十分面白い作品になるのです。それはつまりどういうことかというと、作者は人間を描ける文章表現力がないといけないということ。ストーリー的に面白い流れになってはいても、それを動かす人物に感情移入してもらわないと読者からも共感は得られない。映画の内容というより、僕自身のかつての夢を掘り起こし、再び腰を上げようかと考えるきっかけとなった作品でした。


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