スイミング・プール

(2003年 / イギリス・フランス)

執筆活動中の作家・サラの別荘にひとりの美女が訪ねて来る。最初は彼女を嫌っていたサラだが、次第にその不思議な魅力に惹かれていく。

思わぬ結末は世界を動かす

何かを書いている最中、当初思い描いていた展開とはまるで違った方向へと筆が勝手に進み、そのまま予期していなかった結末に至ってしまうことがよくあります。それは、何も考えず思いつきで何かを書きだした時よりも、書く前にプロットや登場人物像を綿密に設定した時のほうがその傾向は顕著に現れるのです。その理由としてよく言われているのが、ストーリー・人物設定が徹底的に練りこまれた物語というものは、その時点ですでに登場人物が人格を持っており、作者が筆を動かすたびに彼らが勝手に一人歩きし他の登場人物とのぶつかり合いを演じるからというものです。まったくその通りだと思います。僕も下手ながら短編小説やシナリオを書いていた時期があり、プロット設定に時間をかければかけるほど、導入部に気をつけさえすれば、あとは途切れることなくすらすらと書けてしまい驚いた経験が何度かあるからです。

とはいえ、いくらきっちりと人物像を思い描いたとしても、その物語が面白くないことには何の意味もありません。自作の物語をすらすら書けるというのはたしかに快感ではあるのですが、他の人が関心を持って読んでくれない限り、その物語はただの作者による自慰行為の一幕に成り下がってしまいます。趣味で物を書いている分にはそれでいいのかもしれませんが、文章でひと旗揚げたいという熱意を持っているのであれば、できるだけ大勢の人に受け入れてもらえる構成をきちんと勉強する必要があります。勉強と言っても難しいことではありません。それは主人公とライバルとの「対立」、またはそこから生じる「葛藤」をしっかりと描けるかで成し遂げられることだからです。

僕がシナリオの学校に通っている時、いちばん初めの授業で習ったことが、この「対立」を意識した物語を描くことでした。「対立」とは、たとえば、地球連邦軍とジオン共和国軍というわかりやすい抗争の両軸をはじめ、全国大会を目指すライバル校同士のせめぎ合い、兄と弟との兄弟間の相克、嫁と小姑のねちねちとした小競り合いなど、そのモチーフは身近にいくらでも転がっているものです。さらに言うと、この対立構造において、一方が殴ったら殴り返すというシンプルな展開ではなく、殴られて殴り返したいけれども何らかの事由により耐えなければならないというジレンマ、つまり葛藤が加わるともっと面白くなる。こうした展開というのは、人間が社会活動をする上でかならずどこかでぶつかる普遍性を持っているため、多くの人からのシンパシーを得ることになるからです。

したがって、映画にももちろんそういった手法は基本中の基本として取り込まれており、ヒットする作品というのは、訳の分からない文学的なものではなく、たいていスター・ウォーズやロード・オブ・ザ・リングのような明確な対立構造を基軸にしています。この映画はタイプ的には前者にあたり、大衆受けするわかりやすい対立構造は取り入れられていないのですが、それでも僕が「やられた」と感じたのが、プロットが脚本家によって練られたものではなく、主人公自身が紡ぎ上げたものだということをはっきりと思い知らされたからでした。

この映画に関して解釈はいろいろあるのですが、僕が感得したのは、作家である主人公サラがフランスの別荘で新作の執筆に取り掛かっているうち、別荘の住人であるジュリーとの触れ合いを通して、紙の上の物語ではなく、いつの間にか現実の世界を構築し人を動かしていたということ。筆を進めていくうちに思いも寄らない結末に書き至っていたという体験を冒頭でお話しましたが、まさにそれが現実化してしまったという展開で、映画を見ていた僕すらも気づいたらその世界を追体験していたというわけです。このあたりの気持ちをうまく言い表すことはできませんが、これまで既定の路線で作品を量産していたサラが、感情的・官能的なセンスに基づいて物を書くことに目覚めた瞬間、いままで見えなかったものが見え、できなかったこともできてしまうことに気づいた。野性的だとか本能的だとかいうありきたりのメッセージではなく、人間なら誰でも持つ可能性、それも世界をも動かせる可能性を感じさせてくれる映画だったと思います。


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