天才スピヴェット

(2013年 / フランス・カナダ)

モンタナの牧場で暮らす10歳のスピヴェットは、生まれついての天才。ある日、彼に対して、スミソニア学術協会から最も優れた発明に贈られるベアード賞受賞の知らせが届く。初めて認められる喜びを知ったスピヴェットは、ワシントンDCで開かれる授賞式に出席するべく、家出を決意するが…。

天才はほどほどに

spivet

「天才は理解されない」ってよく耳にしますよね。何が理解されないのかって、一つひとつの言動もそうですが、やはりその人が周囲に与える「イメージ」ではないでしょうか。言動がおかしいだけであればただの変人で終わりですが、天才が天才たるゆえんは彼らが手がけた創作物を通して世間に認知されるイメージにあるわけです。このイメージという曖昧な言い方こそがすべてを物語っていて、数値やデータで比較対象化することはもちろん、全人類が共有して幸せになれるなどということもない。画家を例に取るとわかりやすいと思いますが、ピカソの絵を見て難しい顔になることは多いと思います。そうです。意味がわからないからです。さらに言うと、その絵が何を意図していることももちろん、なぜピカソが高く評価されているのかすら理解できない。一般に、天才とは具体的な現実を高度に抽象化し、その抽象化したものを具体的な何かに投影することに長けた人のことをいうそうです。だから、ピカソを天才だと思える人は、彼が意図したこと、つまり、彼が発したイメージをメッセージとして受け止められる洞察力を持った人と言えそうです。僕にとっては遠い次元の話ですが。

ある事物を直接的に表現するのではなく、他の事物によって暗示的に表現する方法のことを寓喩(アレゴリー)といいますが、天才はその域すら超えています。抽象化してから何かに投影し具現化した結果(創作物)を見て、結論として何を言いたいのか、おぼろげながらに理解できる人は多い。でも、その過程を追おうとすると、たちまち意見百出して論理的な解を導くことは決してできない。こんなの一般社会で通用するわけがありません。社会は不条理だという前提はありながら、仕事としては論理的かつ合理的な結果を求められる。まったくもって逆説的です。だから、会社で一を聞いて十を知る、交渉をバリバリこなす、社内の誰よりも契約を取ってくるなんていうのは、ただの仕事のできる人であって、天才的ではあれど天才ではないわけです(それはそれですごいけど)。たしかに、ピカソ的な突飛な発想を欲している企業はあるでしょう。でも、その発想がコンスタントに有益であればいいのですが、天才の本領は、人知を超えた発想をするがゆえに常人が理解するには時間がかかるところにあります。いつか芽が出ると忍耐強く待つにしても、ただの間抜けだったというリスクも考慮しなければならない。よく言いますよね。何とかと天才は紙一重だって。

さて、この映画についてですが、天才少年たるT.Sが主人公。この天才少年(少女)というのもよく聞きますね。14歳で飛び級で大学に入学したとか、5歳で作曲して演奏会を開いたとか、12歳でヨーロッパの名門サッカーチームに入団したとか、調べてみると枚挙に暇がありません。そんな彼らの共通点は、目に見える形での天才であること、つまり理解されないタイプの天才ではありません。したがって、厳密な意味での(ピカソレベルの)天才とは違うわけですが、彼らの才能がずば抜けているにしても、人に理解されない創作物を発表して悦に入るような真似はしてほしくないです。圧倒的な技量を持っているにしても、放つイメージが明瞭なほど人に好感をもたらします。別にピカソらが意図的に抽象度の高すぎる創作物を作っていたわけではないでしょうが、他人と理解し合える心の交流を忘れてしまったら、本人はおろか創作物にさえ人間らしさは残らない。だって、ろくに能力や才能もないくせに、誰に理解されないことが自分は天才だと信じ込んでしまう愚か者もいるんですから。


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