ボーン・アイデンティティー

(2002年 / アメリカ)

銃で撃たれて負傷しマルセイユ沖で漁船に救助されたジェイソン・ボーン。彼は記憶を失っており、手がかりは皮膚の下に埋め込まれていたスイス・チューリッヒの銀行口座を示すマイクロカプセルのみ。

取り戻すべき自分自身とは

僕はふとしたことで物忘れをすることが多く、いまさっきまでやろうとしていたことが「あれ、何だったっけ?」となることがよくあります。ネットであれ調べてみよう、本屋にプログラミング関連の本を探しに行こう、スーパーに靴下を買いに行こう、銀行のATMでお金を下ろしに行こう、なんてことをしょっちゅう忘れます。ひどい時には、ちょっと先の計画はもちろんのこと、考えついた数秒後に忘れるなんてことも珍しくありません。誰かに話しかけられたりとか、大きな物音でびっくりさせられたとかいう、ちょっとしたアクシデントが原因で失念することは誰でもあることですが、僕の場合は何でもないのに忘れるから困りもの。時には、毎日の習慣の中でもそれが起きることがあり、たとえば、シャンプーした後は必ずコンディショナーするんですが、シャンプーしたのに「あれ、シャンプーしたっけ?」となることがあります(そういう時は仕方ないので2回目のシャンプーをします)。

忘れた内容は大したことじゃないという直感がある場合は、後ろ髪を引かれつつもいつか思い出すことを期待して気にかけないようにしていますが、重要なことだったという覚えが残っているときは大変です。思い出そうともがけばもがくほど、かすかな記憶から遠ざかっていき、たぐり寄せようともできない焦燥感で激しい自己嫌悪に陥る。これが僕のいつものパターンです。なので、これって病気なのかなとよく疑います。そこで、いまネットで検索してみたら、「若年性欠乏(認知)症」というのがあるようです。症状はまさに僕が悩んでることそのもので、スマホやPCを恒常的に使用することで脳への刺激が減ったことが主な原因とのこと。でも、たしかにペンを使って文字を書くことはほとんどなくなったので該当することはするのですが、スマホやPCを使うようになる前から物忘れの酷さには困っていたわけで。あ、ほかの原因として、生活習慣が極めて悪いことがあるようで……これかな。

ただ、これら思いついたことをすぐ忘れることに関連して、僕をもっと悩ませていることがあります。それは、「僕自身が僕であることを忘れてしまう」ことです。時折、自分自身の行動が主体的でないと感じることがよくあります。たとえば、朝出勤するために駅に向かって歩いている時、自分自身歩いているという動作を認識できなくなってしまう。何かの映像を見ている時、自分自身が見ているのではなく、その何かを見ている自分自身を見ているような感覚になってしまう。名前を呼ばれれば即反応することはできるので対人的に発生する現象ではなく、ひとりでいる時に起きることはわかっているのですが、「あ、俺何しようとしたんだっけ?」「あ、俺何してるんだろう?」という流れから「俺って誰だっけ?」と思い至ってしまいます。そういう時は、落ち着くまでしばらく動作が止まってしまい、何を考えることも何をしようともできなくなってしまいます。自分自身の無意識下の行動規範が働くまでもなく、その自分自身すら失ってしまうのですから。

この映画の主人公ジェイソン・ボーンは記憶喪失となったCIA工作員という役柄ですが、彼は自分の名前や職業などをすっかり忘れていても、背負った任務(要人の暗殺)についての記憶はかすかに残っていました。そのもやもや感を基に自分の素性を取り戻していく過程で、彼はなぜ記憶を失ったかの原因を探り当てます(思い出す)。その時の行動や心情が、工作員としての任務と人情との間で揺れ動いていたことで、少なくとも自分自身は殺人マシーンではなかったことを結論づけるのです。葛藤の末、そのショックで自分自身を失いましたが、結果的に彼は人間性を取り戻したと言えるのかもしれません。

人事不省に近い状態になって、再び魂が肉体に戻ったかのように自分自身を思い出ことがある僕にとって、ジェイソン・ボーンは他人事とは思えない何かを感じました。問題は、僕は取り戻すべき自分自身というものを、つまり確固とした自分自身の個性というものを、まったく掴めていないことにあるということ。ジェイソンのように、僕には僕がどういう人間なのか、教えてくれる誰かが必要なのかもしれない。


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