ザ・フォッグ

(2005年 / アメリカ)

平穏な小さな港町、アントニオ・ベイ。生誕100周年を迎えた夜、町が濃く深い霧に覆われる。霧から怨念と憎悪に満ちた死霊たちが現れ、1人また1人と残殺してゆく。それは、先祖が封印した口にするのもおぞましい罪への呪いが関わっていた…。

濃い霧の向こう側から来るもの

霧が街を覆い尽くすと聞いただけで、その向こうから世にも怖ろしい悪鬼がやって来て住民を皆殺しにするような、深い恐怖に身が竦んでしまうのは別にホラー映画の見過ぎでも何でもない、ごく自然な心理作用です。ここで言う霧とは、早朝に視界が薄い乳白色に曇る程度の霧のことではなく、まるで煙幕を張られたように真っ白い気体に周囲を覆われて視界がゼロになる霧のこと。僕はそういう霧には遭遇したことはありませんが、昼夜の寒暖の差が大きい高原地帯や海沿いの街ではよく発生するとのこと。それでも、超常現象を連想させるほどの濃さになりはしないものの、その土地の人以外の人が霧に遭遇した際にはちょっとした恐怖を感じてしまうのではないでしょうか。そういえば、僕もいつか長野に行った時、「この霧に呑み込まれてしまうのでは?!」と軽い恐怖を味わったことがあったっけ。

ところで、視界不良になることほどパニックを誘う現象はないのではないでしょうか。よく過大な債権を抱えた地方政府が行政運営は視界不良だとか、先行き不透明という意味で比喩的に用いられるケースがあるように、本来の意味における物理的な意味での視界不良は、もう退くことも進むこともままならない絶体絶命の状態を表しています。想像してみるだけで足が震えます。自分の周囲を真っ白い霧が覆い尽くし、それがいつまでたっても晴れないシチュエーション。まるで足元だけを残して周りの地面一切が崩れ落ちていて、一歩たりとて動けない場面というのは、ただ黙って死を待つだけに似た恐怖です。舌は回らず歯の根は合わず、指先はミミズのようにあてどなく這いまわり、腰はいまにもボロボロと零れ落ちそうで、足先は下手くそなバレエダンサーのようなステップを踏んでいる。その上、霧の向こうから悪霊のシルエットが浮かんできたらもう、ヘビににらまれたカエル状態となることでしょう。

目をつぶって数歩歩いただけでもう降参なのですから、いかに視界不良の濃い霧に包まれることが恐怖であるか言わずもがなです。ですが、人間とは面白いもので、恐怖だとわかっていても見たいと思ってしまう。体験したいと思ってしまう。濃い霧に包まれたとしても、その向こうから来るものが悪霊とは限らない。遠く離れてしまい再会はかなわないとおもっていた両思いの人かもしれないし、いつも欲しいものを買ってくれる優しい親戚のおじさんかもしれないし、死んでしまった最愛の人かもしれない。それに、たとえ相手が悪霊だったとしても、姿形が悪霊っぽく見えるだけで危害を加える存在ではなく、むしろ何か重大なメッセージを届けに来たのかもしれない。そう考えると、霧の向こう側にロマンスを感じてしまいますが、むやみに大自然に挑戦するのは大ケガのもとになりますし他人の迷惑にもなりますのでそんな妄想はやめときましょう。


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