グリーンマイル

(1999年 / アメリカ)

1935年、ジョージア州のコールド・マウンテン刑務所の死刑囚舎房で看守を務めていたポールのもとに、幼女姉妹を虐殺した罪で死刑を宣告された死刑囚コフィーが送られてくる。ある日、ポールは以前から患っていた尿道炎による激痛に襲われ舎房内で倒れてしまう。しかし、その時、コフィーが不思議な力でポールの尿道炎を治してしまうという奇跡が起こす……。

神と悪魔は紙一重なのかもしれない

非常に有名で評価も高い映画ですが、僕にとっては、間延びした感のある退屈な映画だったというのが正直な感想です。この物語の大まかな筋は、コフィという黒人の大男が、女の子ふたりを殺害したかどでで刑務所入りし、ポールら看守たちと交流していくこと。巨漢ながら無邪気で人好きのよさそうな優しさを持ったコフィは、自らにまったく瑕疵はないのに入獄させられたことを一度も釈明することなく、ただひたすら牢の中から、ほかの凶暴な囚人たちが暴れ狂うさまを見つめ、それを必死で取り押さえようとするポールたちを見守っています。「俺はやっていない! ここから出せ!」などとひと言も言わず、時に、廊下を走り回るネズミに微笑みかけたりします。結論から言うとコフィは冤罪だったのですが、凶悪な犯罪を犯して死刑を待つ囚人のみが集められる刑務所の中で、騒ぎひとつ起こさないで従順かつ気配を殺しながら過ごしているというのは逆に目立つもの。そんな中、コフィが持つ不思議な能力に直面したポールは、一気にコフィへのシンパシーを高めていくのです。このあたりから間延び感が強まっていった印象です。

その不思議な能力とは、触れるだけで病気やケガを回復させてしまうというもの。そんな超能力だったら誰をも幸せにでき、自分自身も幸せになれるに決まっているはずなのですが、コフィは女の子ふたりを殺害した容疑でしょっ引かれました。間に合わなかったのです。実際、回想シーンでコフィは「間に合わなかった」と言っています。瀕死の状態にあった女の子たちを救おうと能力を用いたのですが、時すでに遅しでした。そもそもコフィの能力は死者には無効だったのか、それともコフィの能力が不完全だったからなのかはわかりません。ただ、刑務所の中で踏み潰されて死んだネズミを直後に生き返らせた描写があったことから、タイミング次第で死んだ者を生き返らせることが可能だったのかもしれません。どのみち、コフィは能力を発揮して世のため人のために生きていく道を閉ざされました。この映画がファンタジーであることを抜きにして、「人を幸せにできる力を持った人が、人に恨まれながら生涯を閉じる」という非論理的な宿命は、絶対にあり得ないと思いつつも、それが現実と割り切ってしまえるのが僕ら現代人なのかもしれません。

コフィの存在は神の翻案だという向きもあります。善人に深い慈悲を与えるとともに、悪人には厳しい処断を下す。たしかにそういう描写もありました。ただ、ここで問題となるのが、どういう人が善人でどういう人が悪人になのかということ。それは僕にはわかりません。慈善事業に邁進している人や親切な人は善人と考えるし、犯罪を犯したり人を騙す人は悪人と決めつけることしかできません。人の善悪を判断することは、神にしかできないことでしょう。もしそうだったとしたら、コフィが遺したことは何を意味するのでしょうか。その能力の恩恵に浴したポールとネズミ(あともうひとりいます)に遺されたことは、ポールたちにとって幸せなことだったのだろうか。おそらくコフィの人生は、その能力ゆえにさげすまれ疎まれたものだったと思います。それがゆえに、心の交流をすることができたポール(とその同僚たち)とネズミに、ずっとコフィの存在を語らせることを意図していたのだとしたら。それは、神どころじゃなく、悪魔じゃないか。映画を観た人によって意見はいろいろあるかと思いますが、この長尺なので考えてみる時間はたっぷりあります。


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