ヘルプ ~心がつなぐストーリー~

(2011年 / アメリカ)

黒人メイドの存在が当たり前の地域社会で育ってきたスキーター。しかし、大学から戻った彼女は、メイドたちの置かれた立場が当たり前に思えなくなってくる。そこで、身近なメイドたちに現状に対しての想いをインタビューしようとするが、彼女たちにとって真実を語ることは南部という地域社会で生きる場所を失うことを意味していた─。

人種差別反対運動の火種を灯したのは

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1960年代までのアメリカ南部のジョージア州やアラバマ州、ミシシッピ州をはじめとする諸州では、白人による黒人の人種分離が合法的に進められていました。これは一般的に「ジム・クロウ法」と呼ばれ、アパルトヘイト政策下の南アフリカ同様、交通機関や水飲み場、トイレ、学校や図書館などの公共機関、さらにホテルやレストラン、バーやスケート場などにおいても、白人が有色人種すべてを分離することを合法とするものでした。さらに、黒人と白人の結婚を事実上違法とする州法の存在が認められたり、教育の機会が与えられなかったことから識字率の低い黒人の投票権を事実上制限したり、住宅を制限することも合法とされました。

こうした世相に風穴を開けたのが、マーティン・ルーサー・キング牧師です。1955年12月、アラバマ州モンゴメリーで黒人女性が白人専用席に座ったことで逮捕され罰金刑を宣告された事件に対し、キング牧師はモンゴメリー市民に1年にわたるバス・ボイコットを呼びかける運動を展開。この呼びかけには黒人だけでなく運動の意義に共感した他の有色人種、さらには白人までもがボイコットに参加し、黒人による反人種差別運動に火を付けることとなりました。その運動は、キング牧師らの呼びかけに応じて、人種差別や人種隔離の撤廃を求める20万人以上の参加者を集めた1963年のワシントンD.C.における「ワシントン大行進」で最高潮に(キング牧師の「I Have a Dream」の演説はあまりにも有名)。そして、ジョン・F・ケネディ、ジョンソン政権を経て1964年7月に公民権法が制定。これにより、アメリカで長年続いてきた方の上での人種差別は終わりを告げたのでした。

その後、黒人の社会的、経済的地位を向上させるためのアファーマティブ・アクション政策を政府が推進していきますが、その一方で、白人警官による黒人を中心とした公民権運動家への流血事件「血の日曜日事件」、KKK(クー・クラックス・クラン)などの白人至上主義団体による黒人に対するリンチや暴行、黒人の営む商店や店舗、住居への放火なども継続的に発生。これらに加え、キング牧師が暗殺されたことで指導者が不在となったことで、平和的・合法的な反差別運動から、暴力などの非合法的な手段を用いることを否定しない過激な運動(マルコムXの影響が強いとされる)へと変化していきます。こうした動きは1970年代中頃になると沈静化へと向かっていきますが、現在に至っても白人による黒人をはじめとする有色人種に対する暴力事件や冤罪事件、人種差別的な扱いは数多く起こっており、人種間の問題が解消する気配は一向に見えてきません。

この映画は、公民権法が制定される直前の1960年初頭を舞台に、黒人メイドが人間として扱われず、家事手伝いロボットのように見なされていた様子が描かれています。白人至上主義全盛だった時代背景のもと、気に入らない言動をしたり、お客の前で面子を潰されたりすると、たとえそのメイドが長年使えていたとしてもその場で解雇します。メイドは黙って白人の言うことに従うしかなく、口答えしたくても我慢して何事もなかったかのごとく振る舞います。なぜなら、彼女らはそういう宿命であるということを悟っている、いや諦めてしまっているからです。しかし、そうした社会的風潮に疑義を呈し、世に訴えかけていこうとする人は必ずいます。そうした人というのは、強い立場にいるにもかかわらず、その立場を失いかねない行動に打って出ます。それを勇気と呼ぶのか若気の至りと呼ぶのか、それともただの売名行為と呼ぶのか。その答えが出るのは往々にして時間がかかるものなのだと思います。


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