ミスト

(2007年 / アメリカ)

7月19日の夜、メイン州西部の全域が、未曾有の激しい雷雨にみまわれた。嵐に脅える住民たち。だが、その後に襲ってきた“霧”こそが、真の恐怖だったのだ。その霧は街を覆いつくし、人々を閉じ込めてしまう。時を同じく、デイヴィッドとビリーの父子は食料を買出しに行ったスーパー・マーケットで“霧”に閉じ込められてしまう。

恐怖の連鎖は止められない

群集心理の端的な特徴として、群衆一人ひとりの思考が単純な動機で簡単に動かされてしまい暴徒化しやすいというのがあります。よく数千数万の人たちが、同じ方向に向かって狂気の入り混じった表情で気勢を上げている映像を見かけますが、あれはまさしくその典型です。群衆一人ひとりは普段は物静かだったり真面目な務め人だったりなのですが、あるきっかけが原因で強烈な罵詈雑言や破壊活動をも厭わない悪鬼と化してしまう。そのきっかけとなるのがデマや流言であることが多く、群衆は群衆の中にいることで罪悪感を中和され自らの行為を正しいことであると信じて疑わず、火炎瓶や金属バットを手にすることに抵抗を失ってしまうのです。こうした傾向は、政治信念を訴えるなどの比較的平和なデモにおいても散見することができ、参加者が増えれば増えるほど、ちょっと突けば暴徒化する危険性を孕んでいます。

精神分析の大家ユングは、「群れは懐疑を知らない。群れが大きくなればなるほど、真理もまた常により確乎たる真理となり、破局(カタストロフィー)もますます大きなものとなる」と述べ、群集心理は何かに取り憑かれた状態であることを疑わない無意識の状態が人間に戦争を引き起こさせてしまうと警告しました。また、この群集心理には、匿名性(自己の言動に対する責任感と個性がなくなる)、被暗示性「被暗示性が高まり暗示にかかりやすくなる」、感情性「感情的になる。論理的に考えられなくなる」、力の実感「自分達が強くなったような気がする」といった傾向があります。そのため、一度群衆に取り込まれてしまい同質化してしまうと、自分を見失ってしまうどころか、群衆心理を操作しようとする意志に利用されてしまう可能性があることにも注意しなければなりません。自分の行動が絶対に正しいと信じて行動しても、その実誰かに操られていただけだったということが往々にしてあり得るのですから。

この「群衆心理を操作しようとする意志」を持った人を、カリスマとかグルと言ったりします。群衆の心理をうまく操ることで、集団妄想に陥った群衆たちは現実から解離した虚構を確信しつつも非論理的な解決を図ろうとします。その結果が、地下鉄サリン事件などであることは言うまでもありません。また、カリスマとかグルとか呼ばれる存在は、よくスケープゴートを用いて群衆を扇動します。これは群衆の不満をわかりやすく一点に集中することで責任転嫁を促し、さらなる統率力の増強を担保するために非常に効果的な手段なのだそうです。こうしてカリスマやグルの神格化は一層深まるとともに、群衆の盲信も極限にまで達し、資産や全財産を投げ打ってでも救世主に従おうとすることになります。変な宗教に騙されて気づいた時には一文無しになっていたのと同じことです。

さて、この映画では深くて分厚い霧という自然現象を効果的に活用し、人間がいかに心理的に脆くてブレやすい存在であるかを克明に描いた作品です。真っ白い霧に覆い被されてしまったスーパーマーケットに閉じ込められた買い物客らが、霧の中に潜む見えない存在に怯えながら数日間を過ごします。耐え切れずスーパーの外に出た人が戻ってこなかったことから人々のパニックは始まり、倉庫内での怪物との格闘は数人しか目撃していなかったため一笑に付されたが、それがゆえに不信は増幅。さらには、霧の中から巨大昆虫の襲撃があり、人々の恐怖は確実に頂点に達しました。しかし、これで結束が固まることはなく、倉庫内格闘派とその他の人たちで完全に分断。狂信的な女性がグルとなり、不安に陥った人々を聖書のお告げになぞらえて扇動します。このふたつのセクトは互いに武器を持って牽制し合い、殺し合うことすら厭わなくなります。おそらく、どちらかが生き残ったとしても、そのグループ内で分裂を繰り返し、互いを殺し尽くすまで対立をやめなかったことでしょう。そのまさに象徴的なシーンがラストだったと思います。霧の中という群集心理渦巻く空間の中での絶望がどんな結末をたどるのか。非常に衝撃的かつ印象的な映画でした。


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