トゥルー・ロマンス

(1993年 / アメリカ)

麻薬が入ったマフィアのスーツケースを手にしたクラレンスとアラバマは、愛の逃避行を重ねながら危険な賭けに出る。ロサンゼルスに向かったふたりはそこで麻薬を売り、新生活を始めるつもりだった。だが、マフィアと警察の両方に追われる羽目に…。

いつまでもモラトリアムでいるつもりですか

債務の支払を一定期間だけ猶予されていることを「モラトリアム」といいますが、そこから転じて、社会的責任を一時的に免除あるいは猶予されている期間のことを指したりします。特に、就職活動前の大学生に当てられることが多く、さまざまな挑戦を通して生きがいや働きがいとは何かを模索し、自分自身のアイデンティティを確立していく期間のことを言ったりします。本格的に社会人になる前にアルバイトや人との出会いを通じて社会勉強を積む、あるいは大人にための予行演習をする時間的猶予のことでありますが、要するに、責任を伴う立場になる前に思い切り遊んだり好きなことをしておく、文字通りの猶予期間のこと。これをどう捉えるかは人それぞれで、国家試験に合格するために毎日猛勉強する人もいれば、サークルや合コン三昧の遊興に耽る人もいるし、バイトして貯めたお金で世界中を放浪する人もいれば、自分自身とは何かを問い続け思い悩む青春を送る人もいる。大学生だからって遊んでいいわけではないですが、いざ就職活動となって、うまく進められないという人は、このモラトリアム期間をどう過ごしていたかが強く影響しているわけです。

ただ、とはいえ、モラトリアムだからといって何をしてもいいというわけではありません。20歳前後の若い大学生というのは、そもそも高校生の延長線といった感じに物の限度をわきまえていない場合がほとんどので、飲み遊んで騒ぎ回ることが青春だと考えているのが多い印象です。ここできちんと切り替えられないと、社会人になってから世間とのズレを感じ早期退職、ニート化につながってしまいます。しかし、そもそも切り替えられればそれでいいのか、という疑問もあります。酒席での無礼講は社会人になってからもありますが、これまで騒いでも多めに見てもらったツケがいつか回ってくるのではないでしょうか。その通りです。それが「社会に出てから思い知る」ということです。学生時代とは違う、社会に出てからは新人というステータスで甘やかされることはあっても、基本的に社内の上司や取引先の部長らと同じ土俵に立つのです。ここで踏ん張れるかニートに転落するかは、モラトリアム期間は社会人としての自覚を促すための準備期間だったと捉えられるかにかかっています。

しかし、モラトリアムがいつまでも続くと信じてニート転落の憂き目に遭うのは、まだいいほうかもしれません。困ったことには、社会人になってもモラトリアムは続いている、いつまでも何をしても大目に見てもらえると切り替えができない若者がいるということ。酒の席での無礼講は上司が許可したうえでのことであり、ビールで乾杯したら合コンのノリというわけにはいきません。それに、自分がしたことは最後まで自分で責任を持たないといけません。モラトリアム期間中は、「知らない、知らない」とバカ笑いをして知らんぷりをしてきたことも、尻ぬぐいせざるを得なくなります。この映画のように、ノリでこうなってしまったことは、成り行き任せにすることは許されず、すべて自分の責任となります。新人のうちならまだしも、誰かがケツを拭いてくれるなんてことは基本あり得ません。そもそも、甘えを見せた時点で爪弾きにされるでしょう。映画だからハッピーエンドで終わりましたが、モラトリアムのまま笑って人生を終えることなんて思い込んでいるとしたら、その瞬間に人生の負け組となるでしょう。

あ、ここに書いたことはすべて僕自身のことです。猛省。


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