グッバイ、レーニン!

(2003年 / ドイツ)

昏睡状態中に東西ドイツが統一し、意識を取り戻したがそれを知らない母。息子は母がショックを受けないよう、消滅前の東ドイツを必死に見せ続けようとする…。

嘘も重ねれば愛情表現になる

「嘘も方便」ということわざがあります。嘘をつくことは本来良くないことだが、時と場合によっては許されるという意味です。仏教用語から来ているとのことですが、あまり難しく捉えず、可愛い嘘なら逆に喜ばれるくらいに覚えておいたほうがいいかもしれません。使用例としては、長らく病院で寝たきりの生活をしている人に「今日は顔入りいいね」とか、ニンジンが嫌いな子に「ニンジン食べないとサンタさん来ないよ」とかが考えられます。どちらも嘘は嘘に違いないけど、でっち上げるとか騙すとかいう意図はまったくなく、逆に相手のためになるよう気遣うという動機が根底にあることがわかります。

この方便ですが、日本人ほどよく使う民族はいないのではないでしょうか。日本語がたどたどしい外国人に「日本語上手ですね」と微笑んだり、あまりおいしくなかった手料理に「おいしかったです」と言ってみたり。ですが、この場合は、本当のことを言って相手を傷つけたくないという、日本人なりの対立回避のための防御策といったほうが正しいかもしれません。日本人はみんな正直で誠実。国際的にこういう評価がありますが、日本人は白黒はっきりさせない曖昧な言語である日本語により何事も穏便に済ませ争いを避けるので、正直とか誠実とかの背景には、思ったことを素直にはっきり言うという姿勢ではなく、適度な距離を保つからそう見えるだけなのです。

というわけで、日本人は家族や親しい友人を除いて、誰に対しても方便を用いているのかもしれません。もちろん、職場での会議や報告などではありのままを伝えねばなりませんが、それ以外の人間関係については相手との微妙な間隔を保持しながら言葉遣いやスキンシップに十分注意しながらコミュニケーションを図っていくのです。同僚など近い関係で気心が知れてしまえば楽になれますが、上司やクライアントとは息苦しい関係が続くことは誰もが承知のことでしょう。僕なんかはこういう匙加減が非常に下手くそなので、もう何度も息が詰まる思いをしています。いまで言う、コミュ障ってやつですね。

では、最初は方便に過ぎなかった嘘も、ある事情により永遠につき続けなくてはならなくなったとしたらどうでしょう。途中で「嘘でしたー」って舌をペロッと出して終わりにできるのならいいのですが、その人の生命がかかっているとか重大な事情がある場合は、一度始めてしまったらタネ明かしをすることは許されません。そうなったら嘘の自転車操業といった感じに、引っ込みがつかなくなった子供の口喧嘩よろしく、竹に木を接いでいかねばなりません。

この映画は、まさにそういう話です。舞台は統一前の東ドイツ。熱心な社会主義者であった母が心臓発作により倒れ、昏睡状態に陥って意識を失ってしまった。そのまま母の意識は戻ることなく、東西ドイツは統一し、東ドイツは西側に飲み込まれる形で消滅。時代が一気に変転していく中、母が目を覚まします。ですが、過度のショックを与えてはいけないということで、一家は東ドイツ消滅は伏せておくことに。かつての社会主義者同志らの協力を得ながら、何とか母の寝室だけでの東ドイツを存続させていきますが、次第にほころびが生じ始めていきます。

歴史は歴史です。過去の一点だけを切り取って完璧に再生することなど、できることではありません。人間はいま生きている時代に沿った生き方しかできないのであり、誰もが望んだ時代を創っていけるものでもありません。ですが、時代が変わっても、国名が変わっても変わらないものがあります。それがその次代を生きている人間であり人間の心です。ですから、外の情勢がどうであれ、家族のメンバーは変わりません。家族を思う気持ちも変わりません。むしろ、家族の思いがひとつになれば、歴史は後からついてくるものと思えるのかもしれません。東ドイツは二度と戻りませんが、家族の結びつきは取り戻すことができた。この場面でつく嘘は、最大の愛情表現だと思いたいです。


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