王になった男

(2012年 / 韓国)

ある日、王・光海が病床についたことをきっかけに、妓生宿で腐敗した権力の風刺をしていたハソンが極秘の代役として王にすり替わる計画が実行される。

立場逆転ドラマの極意とは

男と女が入れ替わったり、貧しい家の娘が王子から求婚されたり、動物が人間の魂を取って代わったり、現実ではあり得ない逆転現象というのはしばしば漫画やドラマの題材にされますね。この映画もその類だろうと高をくくり、いろいろ調べてみると、設定自体は創作だったということよりもっと興味深い事実が浮かび上がってきました。それは、本作の主人公光海君という人物は朝鮮朝の王における「暴君」のうちのひとりだということ。たしかに、映画での本物の光海君は無口で言葉少なな性格で織田信長的な凄みを効かせていたので、暴君だと言われてみればそうかもという印象はありました。まぁ、偽者の人の良さを際だたせるための演出と言ってしまえばそれまでですが、そもそも偽者の存在自体が創作なので、偽者が人情家なほど本物が怖く見えると言ったほうが正しいでしょうか。なんだか、冷血漢の信長とひょうきん者の秀吉の関係に似てなくもなく、両者が極端に異なっていると双方のキャラクターがより際立つのです。だからこそドラマのモチーフになり得るわけで、この作品における暴君とお人好しのすれ違いは観ていてとても面白かったです。

では、本物の光海君はどのような人物だったのか。のちに朝鮮王朝15代国王となる光海君の父宣祖は、跡継ぎを指名する段になるも正室に子供がなかったため、側室が生んだ子供から選ぶことになります。その候補になったのが、長男の臨海君と二男の光海君。長男が跡継ぎになるのが本筋ですが、1592年、秀吉による朝鮮出兵の折り、宣祖は逃亡、臨海君が捕虜にされる一方、光海君は果敢に戦います。そのため、宣祖から後継者にしようとしますが明に待ったをかけられます。そうこうしているうちに第二正室に嫡男、永昌大君が生まれますが、宣祖死後、ようやく光海君は王に即位。しかし、それを認めない明と臨海君が光海君に盾突きます。これに対し、光海君は臨海君を謀殺し、さらには永昌大君を部屋に閉じ込めて焼死させます。これが後世に光海君が暴君と呼ばれる原因なのですが、その当時としては割とよくある話のように思えます。ですが、儒教社会において兄と弟を殺害したことは大いに徳を欠くこととなるので、光海君は「暴君」となってしまったのです。

このように、悪評にまみれた光海君ですが、最近では高く評価する向きがあるようです。まず文禄の役の混乱を収拾したこと、税金を取り立てるため戸籍制度をまとめたこと(号牌法)、そして現代でいう累進課税の整備と租税は米または地方の特産物とする法律を制定したこと(大同法)などです。こうして見ていくと、ひとりの「暴君」が持つ二面性をうまく娯楽作品に仕立て上げたというところでしょう。とは言え、たとえ歴史物語上の悪役だとしても、政治的には名君であるケースがしばしばあり、中国の始皇帝や曹操なんかもそうですね。そう考えてみると、各国を代表する暴君でこの映画のリメイクを作れてしまうわけですが、歴史的汚点とも言える救いようのない暴君を情緒的に浄化してしまおうという試みはさすがに世界から失笑を買うでしょうね。それはさておき、日本には暴君はいないとされていますが、徳川綱吉でこの映画のリメイクしてみたら面白いんじゃないかと思いました。生類憐みの令で庶民から不興を買ったり、仏教への信仰から多くの寺社の造営・修理を行い幕府の財政を急速に悪化させたという、狂気じみた執政はよく知られていますが、実は善政だったという結論でドラマを描いてみたら。具体的な筋書きは思い浮かびませんが、そこそこ面白くなるのではと想像するに軽くニンマリしてしまいます。


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