八日目

(1996年 / フランス)

母に会うため施設を飛び出したダウン症の青年と、仕事に明け暮れる毎日を過ごすサラリーマンとの心の交流を描く。

休息の次の日は誰にでも用意されている

1日目「暗闇がある中、神は光を作り、昼と夜が出来た」。2日目「神は空(天)をつくった」。3日目「神は大地を作り、海が生まれ、地に植物をはえさせた」。4日目「神は太陽と月と星をつくった」。5日目「神は魚と鳥をつくった」。6日目「神は獣と家畜をつくり、神に似せた人をつくった」。7日目「神は休んだ」。旧約聖書『創世記』の冒頭で語られる天地創造です。

僕はキリスト教徒ではないしキリストの教えに共感する者でもないので、国や宗教をはじめとしたどの組織にもある建国神話的なストーリーに聞こえなくもないのですが、難しいことは抜きにして、ちょっと疑問に思ったことがありました。7日目に神は休んだんだったら、それ以降は何をしているの。6日目で人間が誕生してから、すべてやり遂げたとばかりにずっと休んでいるのだろうか、と。調べてみたら、7日目は継続中とのことで、そもそも創造の1日は24時間のことではなく、数千年におよぶ時間のひと区切りのことなんだそうです。

なるほど。それはわかりました。でも、普通に日本の一般教育を受けてきた僕のような非キリスト教徒にとって、まだ腑に落ちないことがあります。それは中学校で学んだ進化論の存在です。生物は環境に順応するため長期間かけて次第に変化してきた、という考え方に基づく進化論は、「突然変異」「自然淘汰」という原則に沿って論じられています。そして、もうひとつ重要な原則があります。それは生物が誕生していく過程において「神が介在していない」ということ。人間の骨格にはその前段階の名残があるとか、飛べない鳥(その環境では飛ぶ必要がないから翼が退化した)、水陸両用で生活できる生物がいる事実などからして、少なくとも僕にはキリスト教の天地創造より、この進化論のほうが説得力あるように思えます。それに進化論は、生物の最終形態が人間と断定しているわけではないので、これからも人間を含めた生物が進化していけるという可能性を提示していることからも、より魅力的に思えたりします。

ただ、ここでまた話はややこしくなるのですが、では原初の生物に命を吹き込んだのは誰か、地球を生み出したのは誰か、太陽系の惑星の配置を考えたのは誰か、いやそもそも宇宙をつくったのは誰か。という疑問に行き当たります。そうすると、「宇宙の起源はビッグバンと呼ばれる大爆発により始まり……」とか「宇宙は量子論的自由をもつ“無”から誕生した」とか、もう科学的なのか宗教的なのか、僕のような素人には判別つかない説明がゴロゴロ飛び出してくるわけです。天体物理学的に説得力あるのかもしれませんが、誰にもそれを決定的に証明することはできないのです。それこそ神学論争的と言えるでしょう。たしかに、どんな切り口からでも宇宙開闢の謎、生物誕生の謎を解明することにはロマンを感じます。しかし、僕はこう思います。「すべての謎を解き明かす必要なんてない。謎のままでいい謎だって存在する」と。

たとえ人間という形態でこの世に生を受けたとしても、完全に人間らしい姿で生まれることのできない人だっています。本来感じられる光を感じられなかったり、聞こえるはずのことが聞こえなかったり、同世代と同じレベルの会話ができなかったり、意志を疎通させる手段を持ちえていなかったり。自分自身または身近な人がこうした状態であったとしたら、誰かを呪うのでしょうか。6日目で人間を創造された神に対してでしょうか、それとも進化論を唱えたダーウィンに対してでしょうか(優生思想の基となった進化論は特にかもしれません)。前者はなぜ神は私に試練を与えたのか、後者はなぜ数万分の1の確率で起こる障害を持って生まれざるを得なかったのか、といって一生自問自答し続けなければならないのでしょうか。

こうしたことについて、この映画と絡めて結論を出すことは極めて難しいです。仕事一筋の主人公アリーは、ダウン症のジョルジュと出会い交流を続けていくうち、これまで自分が脇に除けてきた大切なことに気付き始めます。というのはよくある話で。それでも、聖書に書いてあることを信じて疑わなかったアリーが(という描写はありませんが、人物像的におそらく)、自ら聖書の根本を改変してはじめて得心に至るという変化を生じさせたのがジョルジュでした。自分に見えないものが見える、感じられないものを感じられる人との交流は、アリーの中でビッグバンを引き起こさせたのでしょう。

アリーにとって神が休息された次の日とは、一旦誕生させられた自らの身が生まれ変わるきっかけを与えてくれたジョルジュが創造されたこと。では、神の休息の翌日、つまり八日目とは誰にでも同じような体験となるのでしょうか。そんなことはわかりません。謎です。八日目は何が起こるかわからない「謎」です。もしかしたら、神は休息の後に「謎」という運命の気まぐれを用意してくれているのかもしれない。だからこそ僕は「すべての謎を解き明かす必要なんてない。謎のままでいい謎だって存在する」と思いたいのです。


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