マグノリア

(1999年 / アメリカ)

偶然か必然か? この世の不思議なめぐり合わせ。一見ばらばらだったことが、ある瞬間1つに繋がることがある。人は自分の生き様を自ら問う瞬間があるのかもしれない。

人生における原因と結果の逆転

いつもはうまくいっていたこと、あるいはいつもだったら気にもかけないほど普通にできていたことが、ある時なんらかの理由でできなくなってしまったら、誰だってパニックに陥ります。それは、いつもは冷静だとか完璧主義者だと言われている人にこそ顕著で、普段は物静かで言動で目立つことはないのに、突然顔が上気して金切り声を上げたりデスクを拳でドンドン叩いたりするという場面というのは往々にして遭遇するものではないかと思います。かくいう僕がそうで、たとえば電車遅延による急な予定の変更や小説の内容がよく理解できなかったりプログラミングの不備で意図した動作ができないだとか、そういったちょっとした行き詰まりですぐカッと来て、叫んだり当たり散らしたくなります。さすがに職場や人が大勢いるところでは自重しますが、家では……。

ところで、つねに冷静であったり完璧志向な人が突然人が変わったかのように怒り狂う原因として、いろいろ思い浮かぶと思います。何でもそつなくこなそうという意識があるからだとか、結果が確定しているプロセスに対して他の可能性を試す寄り道をすることは無駄なことと考えているからだとか、そもそも心に遊びの部分がないので予測できないことを受け入れる余裕を持たないからだとか。でも、本当のところ、彼らはつねに先のことを考えながら行動しているため、いま突きつけられている課題についてはできるだけ過去の経験知や先達から獲得した知恵で対応しようとし、そうした既存の知識で処理できる瑣末なことで足を引っ張られたくないと考えるのです。だから、ある意味賢い生き方だとは思いますが、テンプレートを当てはめれば解決できることができないと烈火のごとく怒る。その対象も、差し当たっての事物ではなく自分自身であることがほとんどのはずです。

この映画に出てくる人たちも、普段は自分の立場や仕事、世界観を普通に全うしているのですが、ある日ある時のほんの刹那的な瞬間におけるタイミングで、彼らの人生が同時に狂わされます。彼らは互いにまったく接点のない生活を送っているにもかかわらず、まるで世界のどこかにいる無関係の誰かが指をパチンと鳴らしたような何の脈絡もないタイミングで、ある人は昏倒しある人は絶望しある人は反逆しある人は憔悴しある人は愛に目覚めるといった、これまでの自らが思い描いていた人生とはまるで思いもよらなかった進路へと引きずり込まれていってしまうのです。しかし、これを道路脇のどぶに落とされたと思うか、人間としての正しい道に軌道修正されたと思うかは人それぞれ。それぞれにそれぞれの人生があり、それを志向する人生観があるわけですから。

本編の最後で、これまたとんでもなく予測不能なことが起こります。それは登場人物すべてに共通して起こることなのですが、これが彼らに起こったことに対する総仕上げ的な「結果」と捉えるのは尚早かと思います。たしかに時系列的に物語の最後に起きたことなので結果であることには違いありません。しかし、この3時間もある長い映画を観た後だと、「原因」にもなり得るのではないかという気もしてくるのです。もちろん、論理的に完全に矛盾しているし、僕がそう主張する明確な根拠はありません。ですが、過去に起こったことが結果となり、その後に起こったことが原因となる。よくよく考えてみると、未来にばかり思いを馳せて現実でつまづく、冷静で完璧志向の僕みたいなタイプがしばしば陥る失策によく似ている気がします。いまこの瞬間カリカリしてしまうのも、思い描いている優雅で万能な未来に安住してしまっているからです。視線を現実に戻してもっと現在進行形を意識しなければならないと思いつつ、こうやっていろいろ考えてしまうことが苛立ちの一番の原因なのでしょうね。


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