セント・オブ・ウーマン/夢の香り
(1992年 / アメリカ)人生に悲観し、ふて腐れた孤独な盲目の退役軍人が、自身もトラブルを抱え人生の選択に迫られている心優しい青年との数日間の交流を通じて、自分の人生を見つめ直し、新たな希望を見出すまでを描く。
あなたが選んだ香水は間違ってませんか
僕が初めて香水を付けるようになったのは、大学生になってから。特に体臭が気になるとかというわけではなく、なんとなく「カッコつけたかった」からです。それ以外にも、高校生だと不良みたいに思われこそすれ、大学生になれば逆に対人関係における身だしなみのひとつだと考えていたことにもよります。大学に入ってすぐ付けるようになったのではありませんが、周りの学生たちも付けてるから合わせるという経緯もあり、田舎者の僕には必要に迫られたから付け始めたとも言えるでしょう。かと言って、いきなり強烈な存在感を放つ香りのものを選んだわけではありません。たしか、ドラッグストアで800円くらいで売ってるような、さわやか柑橘系のやつだったと思います(マンダムだったか)。もともとにおいが控えめなうえ、軽くふりかける程度だったので、「香水つけてるんだね」と言われたことはなかったし、自分でも付けていることを忘れる始末。数ヶ月間は香水をつけるのを習慣にしていましたが、やがて付けたり付けなかったりになり、結局もう香水はつけなくなっていまに至ります。
なぜ僕は香水を付けたいと思ったのか。それはまず第一に「カッコつけたかった」というのがありますが、やはり学生(子供)から社会人(大人)へと移行していく過程で、自己主張が膨張していったことが最大の理由だったと思います。大学時代は高校時代と違い、東京で一人暮らしをし、ある程度の生活費をアルバイトで稼ぎ、生活の資金繰りを自分でこなさないといけない。そうした環境において、自分はもう子供ではない、ひとりで社会を渡っていける、という自己認識(誇大妄想とも言う)に目覚めるようになります。だから、こうした自分を誰かに認めてほしい、いちいち口で伝えずとも気づいて褒めてもらいたい、もう子供ではないことを認めてほしいという意識が高まってきて、その伝達手段のひとつとして香水に手を取ったのだと思います。もちろん、当時は女の子の目を引きたいという甘い欲望が先立ってはいましたが、それでも心の奥底ではいままでよりも一段高く見られたかった。で、結局香水を手放したのは、こうした自分自分の考えが通用しなかったことの失望からであり、また社会に対する無力感を思い知ったからでありました。
おそらく、僕が香水を付けていたことに気づいた人は何人もいたことでしょう。でも、なんらレスポンスがなかったということは、僕が香水を付けたところでその人に影響を与えなかったということです。その人の心を動かすことではまったくなかったということ。つまり、香水を付けて多少の自己主張をしたところで、他人から見て、当時の僕を取り込むことに何のメリットを見出さなかったからと言えるでしょう。当たり前ですが、これが社会です。高校生だったら「何、お前ませたことしてんだよ」と一時的に注目されるところですが、社会では、その他大勢の中に一瞬で埋もれてしまうだけで誰にも目を留めてもらえません。香水を付けたなら、その香水の香りに気づいてくれる人、つまり誰かに自分自身の価値を認めてもらえるようでなければ意味がないのです。
この映画は、香水をテーマにした作品ではありません。話の展開の中で小道具的に香水が扱われるのみで、メインのテーマは別のところにあります。それは、これまでの人生で香水を付けたことのない、いやむしろ香水の意味合いすら知らない純朴な高校生が、盲目の元軍人と出会い、共に生活をしていく中で、大人の社会を知っていくことにあります。ここで言う「大人の社会を知っていく」ということは、自らが無鉄砲な背伸びをすることではなく(自己満足のためだけに香水を付ける)、人生の師匠を得るということです(香水の付け方を教えてもらう)。自分に合った香水の付け方を教えてもらって初めて、相手が付けている香水からその人のことを推し量ることができる。たぶん、それはひとりの努力で成し遂げることは難しいことでしょう。
青年は、元軍人に事あるごとに毒づかれ、身勝手な行動に振り回され、独善的な口調に閉口しながらも、たくさんのことを学んでいきます。そのことは青年にとって、人生のメンターを得たことであり、子供から大人へと移行していくためのひとつの大きな手がかりを得たことでもあります。今後、彼はきっと彼にとって最適な香水を見つけ出し、その魅力を振りまいていくことでしょう。僕も学生時代に、こういう大人と出会いたかったと後悔ひとしおです。