パンズ・ラビリンス
(2006年 / メキシコ・スペイン・アメリカ)フランコ独裁政権下のスペイン。母親の再婚相手であるヒダル大尉の下へ赴くことになった少女・オフェリアは、薄暗い森の中に秘密の入り口を見つける。
あなたには光と影の境目が見えますか
キリスト教でいうところの光と影とは、つまり「天使」と「悪魔」(あるいは天国と地獄)のことです。天使とは、伝令や使いの者であり、神のお告げを伝える役割、また人間が歩む道すべてで彼らを守るよう神から命じられている存在です。ミカエルとラファエルがよく知られていますが、天使はその役割において9つの位階に分けられています。守護天使や大天使(ミカエル、ラファエル、ガブリエル)など。その中でも、人間に天使以上の愛情を注いだ神に反発した大天使ルシファーは、神に従う天使たちと戦って敗北し、堕天使と呼ばれるようになりました。一方の悪魔とは、神の代行者である天使たちが掲げる「善」の旗印に対して、敢然と「悪」の旗印を掲げて徹底的に敵対する者たちのこと。彼らは決して妖怪や怪物の類ではなく、あくまでも「善」なるものに対抗することで、「悪」という名の「正義」を掲げる者のこと。ややこしいですが、先ほどのルシファーがいい例ですね。
とまぁ、クリスチャンでもないし、そもそも宗教的な生活を一切送っていない僕にとって、キリスト教の善悪論なんてチンプンカンプンなわけですが、よくアニメやゲームに登場するイメージで語るにはあまりにも早計と言えそうです。それに、さまざまな宗派のあるキリスト教の中でも、神とは何だ誰が子羊じゃとかいう論争がいまでも継続中であるので、僕にこの場で数百文字で語り明かせと言われてもどだい無理な話であります。ただ、そこに悪魔崇拝だのイルミナティだのが絡んでくると、僕ら日本人は俄然ワクワクしてきてしまいます。よくわかっていないのに、陰謀めいたサスペンスに巻き込まれることは、ミステリー好きの血が本能的に反応してしまうのでしょうか。まさか、愛川欽也が絶壁の岩場の上で、有史以来続く宗教論争を快刀乱麻のごとく解決してしまうなんてことあり得ませんけど。
ともあれ、光と影とは、宗教にかぎらず日常生活におけるどんなシーンにも存在するものです。朝があって夜がある1日のサイクルをはじめ、会社の仲の良い同僚と嫌な上司、やりやすい仕事と不得手な仕事、好きな食べ物と嫌いな食べ物など、ほんのちょっとしたことでも反発し合う物事は必ず存在し、それを僕らはできるだけうまいこと折り合いを付けながら生きている。自分に都合のいいものだけを選択していては、いつしかその偏りが取り返しの付かない結果を招くことになります。栄養バランスが崩れて大病に見舞われたり、見ぬふりをしていた業務が尾を引き大損害を引き起こしたり、新技術の研鑽を怠って後輩にどんどん先を越されたり。話がちょっと脇にそれてしまった気もしますが、おそらく光と影の境目とは、自分がわかっていることと知らないこと、つまり、ふとした刹那的瞬間に訪れる「気づかない」時間帯のことなのではないかと思います。言ってる自分もうまくまとめきれてないのですが、確固とした自己(アイデンティティ)、規律の取れた生活を維持できているか、などを忘れた瞬間、光から影へと転落していくのではないかと考えます。
この映画についてはそこまで小難しく考える必要はないと思うのですが、やはり宗教的なもの、光と影をモチーフにしたものを感じます。なにせ、スペイン内戦という時代背景が暗い、父娘に愛情が介在せず人間関係が暗い、何かしたら即銃殺なので人命の尊厳が薄くて暗い、雨ばっかり降っていて画面が暗い。とにかく暗い。そんな中で、主人公のオフェリアが時折見せる笑顔だけが唯一、光っている。彼女が暗がりから這い出て、光の世界へと手を伸ばそうとしている姿だけが、影の世界におけるひと筋の光になっている。真面目な映画と思いきや、ファンタジー要素も多分に含まれていてところどころ滑稽に見えなくもないのですが、オフェリアがルシファーのごとく堕天使になるかならないかが、この映画における「光と影の境目」のように思えました。
それにしても、小難しく考える必要はないとはいえ、この映画が、僕のいまの心境がダーク一辺倒なことに気づかせてくれたことは事実です。