パラダイス・ナウ
(2005年 / パレスチナ他)イスラエル占領地のヨルダン川西岸地区で、自爆攻撃に選ばれた幼なじみのサイードとハーレド。自爆攻撃を決行するために二人は決行場所へと向かうが、その途中アクシデントが起こり、二人は離れ離れになってしまう。
パレスチナ問題に見る歴史の繰り返し
テレビやネットを見ていると、よく「イスラエルで自爆テロ、○○人が死亡」とか「イスラエル軍がパレスチナ自治区に報復攻撃」などというニュースに遭遇します。彼の地から遠く離れた日本に住んでいる僕らには、どこぞの国同士が戦争しているのかなどと思ってしまいますが、「パレスチナ問題」と呼ばれるこの争いは国同士ではなく、国を持つ者と持たない者との争いです。エルサレムを中心としたパレスチナという土地ではもともとアラブ人(パレスチナ人)が住んでいたのですが、第一次、第二次世界大戦後を通して入植してきたユダヤ人が国連の承認のもとでイスラエルを建国。土地を追われ難民となったパレスチナ人はイスラエルを敵視するようになり、今日に至るまで紛争状態は解決していないのです。
この問題は、元はといえばイギリスの三枚舌外交と呼ばれる外交政策が発端となっています。帝国主義の時代、イギリスは、オスマン・トルコ帝国の支配下にあったパレスチナ住民のアラブ人に軍事協力と引き換えに独立を約束。ユダヤ人には金銭的援助と引き換えにパレスチナにユダヤ人国家の建国を約束。フランスとは中東分割を約束。この結果、パレスチナにはユダヤ人とアラブ人が混在することになるのですが、ユダヤ人のシオニズム(パレスチナ回帰)により、状況はさらに混沌としてきます。手に負えなくなったイギリスはこの問題を国連に付託し、ユダヤ人に同情的なヨーロッパの影響もあり、国連はパレスチナにユダヤ人国家、イスラエルを建国することを承認。これが、数次にわたる中東戦争の引き金を引きました。
この映画の舞台は、パレスチナ自治区であるヨルダン川西岸のナブルス。自動車修理工場で働いている青年ふたりのもとに、ある男が現れ「指令」を告げます。それはイスラエルに潜入して大勢の人を巻き添えに自爆するというもの。幼なじみの彼らは神のご意志としてそれを受け入れ、腰に爆弾を巻いてイスラエル側に入るも、すんでのところで連絡者と接触できず計画は断念。果たして「次」はあるのか。ふたりの葛藤を描きながら物語はあっと驚く衝撃的な結末を迎えます。
日本では、パレスチナ人によるこうした行為を「自爆テロ」と呼びます。一方、イスラエルがパレスチナ人に対して銃撃を加えることを「報復」と呼びます。このような表現の仕方だと、パレスチナ側が明確な「悪」であり、それに天誅を食らわせるイスラエルは「善」というように受け取られてしまうし、実際そのイメージは固定してしまっていると思います。9.11以来、イスラム教徒による自殺を伴う爆破行為はすべてテロ行為であり、同じイスラム教徒であるパレスチナ人が同じ行為をすれば「テロだ」と連想するのはごく自然なことと言えるでしょう。これは西側、特にユダヤロビーが幅を利かせているアメリカの立場そのままなので、日本の報道もそのように誘導されていると思われます(ただ、イスラム教徒に自爆攻撃が多いのは事実で、イスラム教では悪に対する殉教者になれば天国で永遠の至福を享受できるとの考え方があるからとも言われている)。
歴史がそうさせてしまったとしか言いようがないのかもしれません。どちらも「この土地はもともと我々のものだ」と言って譲らないため、一方が折れて、余っている別の土地に移住すれば解決するという問題ではないのです。日本も周辺諸国との間で領土問題を抱えていますが、歴史とは父祖伝来の土地を守るか取られるかの繰り返しであり、それは現在進行形で続いているという現実に思いを致さねばなりません。また、どちらかが一発放ったら、ボロボロになるまでやり合わねばならなくなるということも。