永遠の僕たち

(2011年 / アメリカ)

交通事故で両親を失い、臨死体験をした少年・イーノック。話し相手は、彼だけが見える死の世界から来た青年・ヒロシだけだった。他人の葬式をのぞいて歩くことを日常とする死にとらわれた少年は、そこで余命3か月と告げられた少女・アナベルと出会う。

生きるべきか死ぬべきか、それとも負け犬か

「武士道と云ふは死ぬ事と見付けたり」「生きて捕囚の辱めを受けるなかれ」という言葉があるように、日本人の心の奥底には、死に際における振る舞い方がサムライの時代から脈々と受け継がれています。命はもちろん尊いものだけれど、自分にとってもっともふさわしい「死に場所」とは何かという問いかけに腐心してきたのが日本人です。だから、策を弄した卑怯な勝ち方や騙し打ちをしてまで命をつなぐよりは、潔い死に方をするほうがよい。また、仕える主君が亡くなったら自分も後を追う(殉死)、主家が滅亡しようとも他家に仕えず業火の城と命をともにする。これらは、たとえ先祖が武士の家系でなかったとしても、現代の日本人の誰もが理解できる精神性であることを考えると、往古から続く日本人のアイデンティティであるとして間違いはないでしょう。大東亜戦争においても、日本軍の統率と秩序は列強を圧倒したうえ、本土攻略の足がかりとなってしまう島を守るため玉砕するまで敢闘し、本土防衛のため特攻隊となって艦船に突っ込んで散るなど、日本人の精神性は欧米列強を大いに悩ませました(兵站の不備や稚拙な戦略のせいでそうせざるを得なかったこともありますが)。

この日本人の精神性を「滅びの美学」と呼びうるなら、アメリカはどうでしょうか。さすがにアメリカ人も不本意な死に方は嫌だと考えるのは同じでしょうけど、日本人のように捕虜になるくらいなら腹を切って死ぬという発想はありません。これは欧州の歴史を紐解けばわかるのですが、国王が戦争で捕虜になっても保釈金が支払われるまで居留地で臆面もなく酒や美食に舌鼓を打っていたといいます。一般の将兵は奴隷として売りに出されて酷使される運命にありましたが、そうなる前に全員自害したということは寡聞にして聞いたことがありません。というわけで、アメリカ人が人生において重要としているのは死ぬことではなく、現在を楽しみながら生きるということなのです。だから、彼らは戦いに負けることは前提にしておらず、諜報活動に力を入れ綿密な戦略、戦術を練ってから戦いに挑みます。勝つためには何でもする。理不尽な扇動も民主主義のためとすり替える、あれこれ理屈をつけて資源確保のための戦争を始める、強引なこじつけで原爆投下を正当化するなど、「正義の戦い」を標榜するのがアメリカです。最後の一兵になるまで戦って死ぬ、お国のために小さな戦闘機で巨大戦艦に特攻するなどという発想があるわけありません。

国が違い民族が違えば考え方も違うのは当然。どちらが正しいということもなければ、どちらが模範とすべきということもないでしょう(ただ、戦争で勝てるのは後者のほうでしょう)。それぞれの国にあまねく広がっている共通観念とも言える精神性は、やはり共有している歴史がいちばん影響していると考えられますが、こと移民国家であるアメリカにおいては構成員それぞれのバックグラウンドは一様ではなく多岐にわたります。そんなアメリカで、ある程度共通した精神性の確立に一役買っているのが宗教だといいます。ひと言で宗教と言ってもそれこそ多種多様ですが、メジャーなのはキリスト教です(イスラム教徒も多いですがここでは代表的な宗教としてキリスト教のみ触れます)。キリスト教では自殺は悪とされているため、日本の「バンザイ突撃」や「神風特攻隊」は単純に自殺行為、つまり美的行為と捉えることは絶対にない。自殺なので負け犬です。大東亜戦争において、劣勢に陥った日本兵が雄叫びを上げながら銃剣を振りかざして突撃してくる様を目の当たりにして、大勢のアメリカ兵がノイローゼになったそうですが、わからない話ではありません。

この映画の主人公は、他人の葬式に関係者を装って出席することを日常としている少年イーノック。そんなイーノックが、がんに蝕まれ余命いくばくもない少女アナベルと出会うというストーリーです。話の筋は割とよくあるもので、結末も思った通りになるのですが、全編を通してアクセントを与えているのが元特攻隊員のヒロシがイーノックにしか見えない幽霊として登場することです。イーノックは若さゆえの好奇心とはいえ、葬式、つまり死に興味があるという時点でアメリカ人の一般的な精神性に照らし合わせて負け犬です。そんな負け犬のイーノックのコントラストとして、潔い死に方をしたヒロシが寄り添う。対照的なふたりの間に、自ら死期を悟っていながらも精一杯生きようとするアナベルが割り込む。いつ死んでもいいと思っていたかもしれないイーノックにとって(実際、彼は学校をドロップアウトしていた)、アナベルは誰よりも生気に満ち溢れているように見えたことでしょう。臨死体験をしネクラだけど健康体のイーノックに対し、死に縁の立っているとはいえ笑顔を絶やさず活発さを隠そうとしないアナベル。でも、このふたりの恋愛模様はそれほど重要ではないと僕は思いました。

映画では描かれていなかったけど、イーノックがアナベルと出会う前、ヒロシの存在はまったくの異物だったに違いありません。大東亜戦争で日本軍が特攻や玉砕をしたことについては学校で習ったはずだし、多少なりと知識はあったと思われます。おそらく、というかいまの欧米人の対日観そのものなのですが、当時の日本人は凶暴で侵略的、そして劣等というイメージだったのではないでしょうか。したがって、イーノックのヒロシに対する認識は蔑視的だったと思います。ふたりは友人関係ではありましたが、イーノックは潜在的にヒロシをどう思っていたか。旧日本兵、しかも特攻で散華したとなれば、アメリカ人にとっての「負け犬」そのものです。自分自身、負け犬であることを棚に上げて。だから、この映画の見どころは、うら若き少年少女がうたかたの恋を謳歌するくだりではなく、イーノックが自分が負け犬であることを受け入れられるのかというところにあるかと思います。アメリカ的な意味での勝利者になれるかどうかは別として。


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