サブマリン

(2010年 / イギリス)

オリバーは妄想力の逞しい15歳。授業中自分が死んだ時の盛大なる葬式や、マスコミの反応なんかを想像して過ごしている。そんなオリバーには、想いを寄せる女子がいる。元カレと別れたばかりのジョルダナだ。

思春期の潜水艦が向かう先

僕が思春期だった頃を重ね合わせながら観てました。リアルな生活感から距離をおいて、ちょっと離れたところから、それもこっそりと壁から顔を半分覗かせて物事を俯瞰しているような、お世辞にも爽やかとはいえなかった思春期。頭の中にあるのは「こうだったらいい」という空想だけで、目に見えたものをダイレクトに受け取って、それをリアルな人間関係に落とし込むということはしなかった、というより、できませんでした。僕の葬式には、僕の遺影に向かって学校中の誰もが嘆き悲しみ、かけがえのない存在の喪失を心の底から惜しんでいる。この映画の主人公オリバーが妄想していたことと同程度のことを僕もつねに思い描いていて、それがいつか必ず現実のものになると信じて疑わなかった。普段は特徴がなく誰の目にもつかない生徒が、ある日突然ヒーローになって皆から最大限の賛辞を受ける。そんなことを本気で考えていました。そう、僕は潜水艦の中に住んでいたのです。暗い海の底を這い進みながら、時折潜望鏡を展開して現実世界の様子をうかがい、その映像を下地にして、自分だけの都合のいい造形に塗り替えて嬉々としていたのが思春期の頃の僕でした。

そんな僕でも、魚雷を装填し臨戦態勢に入るほどの出来事が起こりました。恋、とは言いがたいのですが、どこか気になって仕方のない異性を視認した瞬間でした。その子は可愛くありませんでしたし、気立てがいい子でもありませんでしたが、彼女は僕を発見してしまったのです。海中深くの潜水艦の中にいて誰にも気づかれないはずの僕を発見してしまったのです。驚きでした。普通の子は僕を認めた瞬間、そっぽを向くのに、その子だけは僕の顔をしばらく見つめています。まるで、僕が展開している潜望鏡をしっかりと認めていて、小さいレンズの向こうに僕の両目があることをちゃんとわかってでもいるかのように。言ってしまえば、彼女はブスでした。ブスでも可愛くもないと中立を装って評価するほどもなく、ブスでした。でも、僕はそんな彼女に急激に感化されていきました。つねに視線を感じます。でも、見つめ返すことはしません。気付かれないよう、チラチラと彼女の動向を探るだけです。どちらからも話しかけず、どちらからも近づきません。そんな毎日を送りながら、僕はため息がちになりながらも心が躍動するのを感じました。でも、彼女はどこかへ行ってしまいました。僕の潜望鏡が彼女を捉えることは二度とありませんでした。僕は結局、魚雷を打たなかったのです。

思春期が記憶の彼方に過ぎ去る頃、人は外の世界へ出なければならなくなります。つまり、潜水艦から這い出て、陸へと上がらなければなりません。僕はどうだろうか。陸へと上がったものの潜水艦は近くの岸に繋留したままで、過去から築き上げてきた安楽へといつでも退避できるようにして、陸上の生活を拒絶してはいないだろうか。いまも潜望鏡越しに世間を見てはいないだろうか。自分自身を知ることとは、自分が潜ってきた海の深さを知ることなのであれば、自らの足で潜水艦のある場所まで潜り、水圧と息苦しさで思い切りもがき苦しむべきだ。これまで一度も使わなかった魚雷は、そうした自分自身に向けて発射し粉砕するためにあるに違いない。とはいえ、やはり魚雷は思春期のうちに発射しなければなりません。年を重ねて大人になっていくにつれ、当然のことながら魚雷は錆つき精度を失っていくのです。オリバーは、自分自身が乗る潜水艦を家族や学校の中でうまく操艦でき、ブスの彼女を捕捉できるのでしょうか。そんなオリバーがちょっぴり羨ましいと感じてしまうというのは、思春期の頃の僕は潜水艦の操縦があまりにもうまかったということなのでしょう。


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