八月の鯨
(1987年 / アメリカ)長い人生のほとんどを一緒に過ごしてきた老姉妹。彼女たちが夏を過ごす別荘のそばの入り江には、毎年8月になると鯨がやって来るという。
人生を謳歌するには頑固さが必要
テレビドラマや映画などに登場する頑固じいさんが「頑固」であることを証明するセリフとして「死んでも死にきれん!」というのがよくあります。死にきれないと思う動機はさまざまですが、人生のライフワークとしてきた何かをやり遂げられなかったら末代までの恥とか、自分の息子や娘たちが幸せな環境にないことを一家の家長としてなんとかしてあげたいという責任とかを感じるといった、自らの信念に反する無念からきていることは容易に想像がつきます。
ただ、こうした感情はすべての老人に当てはまることではなく、現役時代、職人気質の傾向が強かった人に顕著なのかなとなんとなくですが思います。というのも、世代間のギャップを悠揚と受け入れて時流に任せてしまう人がいる一方、職人肌の人は昔ながらの価値観を判断材料とするとともに独力で生き抜いてきたという自負が強い。そのため、何事に対しても無念に感じること、つまり成し遂げられなかったことを激しい屈辱と感じる。だから、一度決めたこと、一度担った責任を実現するまでは絶対に死ねない。そのためになら、たとえ周りから人が離れていって孤独になっても、爪弾きにされ疎外感を味わっても、譲れないもののために命を捧げようとする。「死んでも死にきれん!」と叫ぶのは、自分の人生を否定されたくない自尊心の発露なのかもしれません。
この映画の主人公セーラもそんな頑固じいさん、いや頑固ばあさんのひとりです。頑固と言っても何でもかんでも嫌味を言うへそ曲がりではなく、8月になると自宅近くの入り江にやってくるという鯨を毎年楽しみに待っているロマンティストです(このセーラと対照的に描かれているのが姉のリジー)。もうすでに高齢のセーラの周辺では親しかった友だちが亡くなったりして、人間関係がどんどん寂しくなっていきます。自分にもいつお迎えがきてもおかしくない年齢です。それでもセーラは鯨を待ち続けます。まるで「8月に来る鯨を見なければ死んでも死にきれないわ!」と言わんばかりに。それもただ待ち続けるのではなく、セーラは生き続けているのです。
100歳を迎えた老人に「長生きの秘訣は何ですか」とインタビューするのは、お約束と言っていいでしょう。この場合、たいてい「ちゃんと1日3回食べて、規則正しい生活をすること」といった、これまたお約束的な答えが返ってきます。たしかにそうなのでしょう。でも、この映画を観て、もしかしたら頑固じいさん、頑固ばあさんになることだって長寿につながるのではと感じました。だって、自らの信念を達成するまでは、死にたくても死ねないのですから。