マルホランド・ドライブ

(2001年 / アメリカ・フランス)

濃厚な闇に覆われた真夜中の山道を走る1台の車。やがてぼんやりとしたヘッドライトに浮かび上がる“マルホランド・ドライブ”の標識。それは一度知ると何度でも味わいたくなる、美しくも妖しいワンダーミステリーへの入り口だった…。

運命という名の標識

「棺桶の蓋を開けたら、中に入っていたのは自分自身の死体だった」。なんていうシーンを何かの漫画で読んだ記憶があります。決して開けてはいけない棺桶を、相手に脅されて冷や汗ダラダラかきながらたどたどしい手つきで蓋に手をかけ、主人に何をされるかわからないという底知れぬ恐怖のもと開けた瞬間、その中には彼自身が惨殺死体となって埋もれていた。これはもちろん漫画での描写なのでこんなオカルトチックなことは現実に起きようはずないわけですが、驚愕の程度は低下するにせよ似たようなことは往々にして起こりえます。つまり、「まさか俺が私が関わるなんて思ってもいなかった」という、瓢箪から駒的なシチュエーションのこと。こうした展開はしばしば「運命」という言葉で置き換えられるように、人との出会いや競争社会での大成功、世界を揺り動かす画期的な発明品などはつねに人知を超えた神の所業という文脈で語られることが多いです。

ただ、この「運命」ですが、人間にはどうすることのできない偶発的かつ奇跡的な概念として希望と諦めのニュアンスで用いられがちですが、「運命」的なイベントとは起きる前段階までは一般人でも操ることが可能だということは知っておいたほうがいいと思います。それについて、天外伺朗著『運命の法則―「好運の女神」と付き合うための15章』という本に詳しく書かれています。「運命には法則がある」という大前提のもと、自分がいかにプロジェクトにコミットしているか、自分がいかに部下に対してやる気を起こさせているか、そしていかにそのプロジェクトに夢中になっているかといった要因が重なって、絶対不可能と思われていた目標を達成できたり、そこから思わぬ大ブレークにつながったりするのだといいます。これは決して偶然でも神のご加護でもなく、人間自体が生み出すものだということです。しかし、運命にたどり着くためには、それなりの人生経験と知見、直感を持ち合わせていなければならないというわけですが。

ただ、大きな感動を与えてくれる出来事だけが運命だというのは間違いで、ほんのちょっとしたことだって運命と呼ぶことができます。コンタクトレンズを落としてあちこち探し回ったが見つからず、でも実は自分の鼻先に貼り付いていただとか、夜中ランニングしていて前日見かけた黒猫のカップルと再会しただとか、他人から見ればくだらないことだって「思いも寄らない」ことには違いないわけです。それを言ったら、棺桶の蓋を開けたら中に入っていたのは自分自身の死体だったということも当てはまるのかもしれません(これはちょっとしたことどころではないですが)。

考えて見れば、僕の人生だってそうかもしれない。大学を卒業してから思いも寄らない人脈を通してテレビ局で番組制作をするようになり、その後思いも寄らない方面から編集プロダクションで新聞記事を書くようになり、そのまた後には思いも寄らない人からの助言でウェブ制作に興味を持ち、現在はウェブ制作会社でデザインやアプリ開発をやっている。こんなちっぽけな存在だけど、振り返ってみれば「思いも寄らない」転機で満ち溢れていて、「思いも寄らない」ステップを踏んでここまで生きてきた。僕は意図的に運命の前提を紡ぎ上げてここまでキャリアを積み重ねてきたというわけではなく、その都度その都度人生の潮目に乗っかかってきたっていう感じなんです。こういう生き方だって「運命」だと言えるんです。棺桶の蓋を開ける勇気は僕にはないけど。

さて、この映画ですが、まさに僕がここまで述べてきたことを下地にして観てもらうと有意義だと思います。何が起きるかわからないけど、その何かは必ずあなた自身と直結した前提をもってやって来る。棺桶の中には何が入っているのか。それは観た人にだけに与えられる「運命」なのだと思います。


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