100歳の華麗なる冒険
(2013年 / スウェーデン、フランス、ドイツ)老人ホームから逃げ出したアランは、バスに乗って当てのない旅に出る。だが、ひょんなことからギャングの闇資金が入ったスーツケースを入手し、警察とギャングに追われる身となり…。
100歳まで生きたのか生きるのか
もし100歳まで寿命があるとしたら、いったい僕はどんな100歳を迎えているのでしょうか。おそらく、というか、確実に衰えていて歩行や食事すらままならず、さらには重度の介護認定されていることも考えられます。一人暮らしなんか絶対にできるはずがなく、周りの人の助けを借りて、そして周りの人の時間を奪いながら生きているということになっているんじゃないかって思います。100年生きるということは大変なことです。最近は戦争のない平和な時期が続き、高齢化社会と呼ばれるほど平均年齢が高くなっているため、実際僕の近親者でも90歳近くお元気な方も多いです。もしかしたら100歳という、前時代だったら到底考えられなかった寿命が、普通になってしまっているのかもしれない。でも、100歳を迎えたすべての方が元気でかくしゃくとしていることはありません。もう体が言うことを聞かなくて、いつも同じ場所に座ってずっと一点だけを見つめていたり、わけのわからないことばかり口走っていて周りの人を困らせたり。そういえば、僕のひいおじいちゃんがそうでした。歩いているところはほとんど見たことなかったし、食事はもちろん入浴も排泄も自分だけではできず手伝ってもらってました。たぶんこれが標準的な100歳の姿なのでしょう。背負ってきた人生、やり遂げてきた実績、次世代に伝えるべき経験など関係なしに。
もし僕がいま100歳だったら、どんな人生を歩んできたのか、ちょっと調べてみました。完全に年がバレますが、明治9年生まれということになり、明治維新後の版籍奉還、廃藩置県を経て、翌年には西南戦争が起きるという日本が近代へと脱皮する、その真っ只中で産声を上げたことがわかります。その後、日清戦争、日露戦争、そして二度の世界大戦を経験するという、日本近現代史の生き字引ということになるわけです。よく考えてみると、こんな人が現在でも大手を振って歩いていたら、とんでもないことになります。何がとんでもないかというと、激動の日本史100年間をリアルに体験してきた人が身近にいるわけです。おそらく1889年の大日本帝国憲法発布の頃くらいからちゃんとした記憶はあるでしょうから、まさに近代日本の成り立ちを全身で吸い込んでいるわけです。極東の未開国から列強と伍し世界最強国に挑んで散った、その歴史を生で語れる人がそのへんにゴロゴロしてるなんて考えてみてください。元特攻隊の人、原爆被爆者、シベリア抑留者など、ほんの6、70年前の歴史を語れる人がいなくなってきている現在。一般的に100歳まで寿命がある人はそういないと思います。だから100歳だからと言わず、本人が語りたがらずとも過去の重大な出来事に対する貴重な証言は聞き出さないといけない。100歳になって初めてその人の人生をインタビューするのは完全にタイミングずれなのです。
もし100歳まで生きられるとしたら。それは、たしかに記念碑的な偉業だろうし誰からも祝福されるアニバーサリーだろうとも思います。でも、「100歳」というワードだけ言挙げして、たとえば99歳で人生の幕を引いたならどこも誰も騒がないというのはおかしい。100年という人生はたしかに輝かしいけど、モノを言うのは「いつまで生きるかではなくどう生きてきたか」でしょう――。この映画は、100歳のおじいちゃんがひょんなことから手に入れた大金をめぐって、ギャングとのドタバタ逃走劇を繰り広げるというコメディですが、気づかないといけないことは、面白いのは「100歳のおじいちゃん」ではないということ。そのおじいちゃんが生きてきた100年の人生の軌跡がいまどのように跳ね返ってきているのか。僕自身もそういう軌跡を刻んでいけるような人生を意識していかないといけないとつくづく思い直しました。