八日目の蝉

(2011年 / 日本)

不倫相手の子供を誘拐した女と、誘拐犯に育てられた女。ふたりの4年間の逃亡生活と、その後の運命を描いたヒューマンサスペンス。

誰だって八日目を生きている

僕はマジョリティを避けるきらいがあります。マジョリティと言っても位置づけはさまざまですが、僕が言うマジョリティとは「圧倒的多数の支持」のこと。メディアなどで登場すれば大歓声、大歓喜を受けるような人にはそっぽを向きます。その人の人間性がどうというより、僕自身がそういう流行の波に乗せられてしまうのが嫌なのです。かつて若貴ブームの時、どちらかが土俵にあがってテレビの内外から大歓声を受けているとき、僕は必死で相手力士を応援していました。早い話、判官贔屓の反対バージョンでしょうか。冷静な視点というより、あまのじゃくといったほうが正しいのかもしれませんが。

こういった傾向は、初めは芸能・スポーツだけに限られていたのですが、次第に政治観にも影響をあたえ、いつしか自らの人生の選び方にも及ぶようになりました。それが「他人と同じじゃ嫌だ」という集団生活に対する一時的な反抗期の延長、あるいは単に「変わったところを見せたい」という幼稚な自己顕示欲であるうちはまだよかった。20代前半から中盤には「俺はお前たちとは違うんだ」という確信を持つようになってしまった。悪ふざけであまのじゃくを演じていたという下地がそのまま僕自身の岩盤となって背骨を形作ってしまったのです。本来であれば、社会人としての基礎をしっかりと学んでおくべき、20代前半から中盤の時期がすっぽりと抜けてしまった。これは、その後の人格形成において、計り知れないほどの致命傷となってしまいました。

あのとき、怒られて、叱られて、失敗して、泣いて、また泣いて、マジョリティの中で僕自身どう振る舞うべきなのか矯正を受ける機会があったなら。僕自身でそんな自分じゃ社会を渡っていけないし将来きっと後悔する時が来ると気づいていたら。僕自身のキャラはそのままでマジョリティの中でも受け入れられるよう数多くの人と接して個性と社会性の摺り合わせをする努力をしていたら。

この「八日目の蝉」という映画の主人公が背負うのは「マジョリティから逸脱した人生」。赤ちゃんの頃に誘拐され赤の他人に育てられたというバックグラウンドを背負っています。「どうして私なの?」「どうして他の人と一緒じゃないの?」。こんな叫びが聞こえてきそうなほど、主人公は自らの人生と他人(誘拐犯)の人生が重なり合うことに煩悶します。しかし、彼女は「私はあなたたちとは違う」と突っ張ることはなく、「私はマジョリティから逸脱しているけど、あなたたちと同じであることの証明をしたいの」という心境のもと、自らの運命を受け入れます。どこか浮世離れして淡々としている彼女だけど、ほかのマジョリティとは違う幼年期を送ってきた彼女だけど、新しく宿した命には無責任ではいられない。彼女はこれまでのマイノリティの殻を破ってマジョリティの中へ突っ込んでいく決意をしたのです。

男はいつだって無責任だ。って、男というジェンダーすべてに責任をなすりつけて相対的に自己正当化しようとする僕自身は、いつまでもマジョリティにそっぽを向け続ける、あまのじゃくとしてしか生き続けられないのかもしれない。


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