ムーラン・ルージュ

(2001年 / アメリカ)

世紀末のパリ。大人気を誇るキャバレー「ムーラン・ルージュ」のスターで高級娼婦サティーンと、貧乏作家のクリスチャンは激しい恋に落ちる。

芸術家になるには

僕自身のことを音楽で表現するとしたらどういうものになるんだろうと、ふと思いました。で、思いついたと同時に首を傾げました。音楽にするにしても、僕自身のどの部分、どの時間をメロディーに乗せるのだろうかと。喜びや悲しみ、苛立ち、怒りなどの一時的な感情をいちいち拾い上げていたらきりがないですし、僕の外見、ファッション、言動に着目してみるにしても主観的なものになってしまうだろうし、これまで辿ってきた人生にしたところで間延びした退屈なオーケストラになりそうで誰も聴いてくれないでしょう。まして、面談の場や初対面の人に対して自分自身をプレゼンすることすらろくにできないのに、音楽という芸術を通して僕自身を表現するなんてハードルが高すぎるのではと思ってしまいます。そもそも、音楽とひと口に言ってもさまざまなアプローチがあることは言うまでもありません。即興の鼻歌で気分を表すのが一番簡単ですが、嬉しい時以外に鼻歌なんてしないので手段としては弱い。既存の流行歌で代用したところで結局僕自身のものではない。楽器を買って気持ちをメロディーに乗せるなんてハイレベルなことはできない。では、やはり難しいのでしょうか。

その前に、そもそも僕自身というものを僕自身がわかっていないことには、音楽にすることはもちろん、言葉ですら伝えることはできません。小説や絵画などでももっての外です。僕自身のことなんて本人である僕が普通にわかっていることなはずなのですが、わかりません。面接や打ち合わせでの受け答えは割とスラスラ言えるほうですが、じゃあ君はどういう人なの、君は何がやりたいのと聞かれると途端に口をつぐんでしまいます。どういう人なのか、何がやりたいのか、自分自身の棚卸しがまったくできていないわけではありません。むしろ、したいこと伝えたいことはたくさんあります。おそらく誰よりも自己表現の場を渇望しているほうだと思います。口をつぐんでしまうのは、怖いからです。情けないことに、僕はいくつになっても、上から押さえつけられる強迫観念に捉われ、自分の意見が拒否されることを怖れて言い澱んでしまいます。笑ってごまかしたり話を逸らしたり無難な方向に流れるよう迎合したり。いつも相手に悪い印象を与え、数多くの機会を失い、また人とのつながりを潰してきているのがこれまでの僕の対人関係です。断られる、無視される、鼻で笑われる。こういう恐怖が先立つため、人との間に壁を作り一定以上の距離を空けてきたこれまでの人生。でも、違うのです。断られる、無視される、鼻で笑われる。相手に対してこうしてきたのは僕だったのです。

自分の言動を深読みして自分自身を傷つけることは、いちばん損なことだと思います。僕はそうした自傷行為を繰り返し、その繰り返しをいつまでも終わらせることができずにここまで来てしまいました。その中で、つねに生き恥を晒し、相手に対して負い目しか感じられず、僕自身を信じることができないと思い込んで払拭できない日々を生きてきました。

それでも思うのは、自分自身を表現することで重要なのは、どれだけ自分をわかっているかではなく、どれだけ自分を意識していないかということなんじゃないかと。意識していないということは自分を捨てているという意味ではなく、少なくとも僕のように自分自身を勘違いして自己崩壊するメンタリティではないということ。だから、音楽にせよ何にせよ、芸術で何かを表現するには、自分自身のことを理解するなんて難しいことは必要ないんでしょう。そうであれば形なんて気にすることはない。音楽と決めたなら、ギターだったら、ジャラーンと弾いてみたメロディーに今の感情を込めればいい。もちろん相手に伝わりやすい進行にすることが大切ですが、それ以外は自由。僕はこういう服装でこういう考え方でこういう香水を使っていてこういう話し方をするなんて余計なことを前提にする必要はない。ある程度のレベルになるとイメージづくりは重要ですが、「表現する」ことは自画像であってはならないのではないかと思います。この映画を観て、それがわかった気がします。気持ちを歌で伝える、表現する。そのストレートな自己開陳は何よりも聴いた人の心を揺さぶるのですから。


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