グラディエーター

(2000年 / アメリカ)

帝政ローマ時代中期を舞台とし、ローマ軍将軍マキシマス・デシマス・メレディウスは皇帝アウレリウスと皇太子コモドゥスの確執に巻き込まれて家族を失い、自らも奴隷に身分を落とす。マキシマスはコモドゥスへの復讐を誓い、ローマ文化の象徴の一つである剣闘士(グラディエーター)として名を上げていく。

大義なき決闘から感情の爆発はあり得ない

小学校高学年の頃、衆人環視のもと、学校の砂場で因縁深き同級生との“決闘”をしたことを思い出しました。因縁と言っても別に深い怒りや憎しみから生まれたものではなく、それまで仲は悪くなかったのに何らかの行き違いで仲違いしただけだったように記憶しています。だから、決闘と言うには大げさすぎるけど、じゃれ合いと言うには可愛げがないといった程度。どちらかが再起不能にまで殴り合うなんて殺伐としたものではあるはずがなく、駆けっこや腕相撲で優劣を競うことの延長線だと思ってくれればいいです。僕を含めたグループともう一方が、剣道の勝ち抜き戦のごとく、砂場でプロレスまがいの軽いどつき合いをしたわけです。僕が誰とどのような闘いをしたのか、また結果はどうなったのかも忘れました。僕はただ、相手と効果のないローリングソバットの打ち合いをしたことだけ覚えています。結局、明確な勝利も痛み分けもない、子供同士の遊びでした。砂場の縁で囃し立てていた同級生も、次第に興を失っていったのか、決闘が終わることにはギャラリーの数も半数以下に減っていました。

形はどうあれ、この時の僕は見世者の闘士でした。武器は持たなかったものの、対立する相手側を殲滅するまで闘うことを宿命付けられた闘士でした。その熱の入った闘争を歓声とともに見守るギャラリーもいました。まぁ、いま思い返してみるとバカバカしさこの上ないのですが、それでも小学生の僕らには真剣な戦いの場に思えました。「死ぬかもしれない」という緊張感と高揚感(当時は漫画に影響されてて死は現実的な認識ではありませんでした)。こんな自分自身を一瞬でもカッコいいと思ったことは事実です。ただ、本格的な喧嘩だとか果たし合いという程ではなかったので、ギャラリーの熱が醒めると同時に、僕ら自身もだんだん尻すぼみになっていったことは必然だったかと思います。というもの、この決闘をアレンジしたのは、もともとたいした因縁ではなかった双方が決別するよう仕向け、決闘へと導いたプロモーター的な児童に乗せられただけなので、盛り上がるのは瞬間的だけであり飽きるのもそりゃ早いわけです。どこにでもいますね。こういう子。

そもそも剣闘士とは、互いに真剣での闘いを演じ見世物となって死ぬことを強制された者のことです。剣奴、あるいは剣闘士奴隷ともいいました。その多くは戦争捕虜の中から選抜されて養成所で育成され、各地の闘技場で互いに闘わされたり、猛獣と闘わされるなどしたのです。こうした大々的な剣闘士同士の殺し合いや猛獣との闘いがローマのコロッセウムで繰り広げ、ローマ市民は彼らの生死を賭けた闘いに大歓声を挙げ、狂喜乱舞したのです。完全に娯楽でした。そんな中、紀元前73年にスパルタクスの反乱が起こります。トラキア出身のスパルタクスは、その雄弁と豊かな才でたちまちローマ全土で7万人の奴隷叛乱軍を組織し、元老院派遣の鎮圧軍を再三にわたって敗走させます。一時はローマに迫りますが、クラッススがローマ軍全体を指揮して迫ると激突を避け南進してシチリアへ。そこに、スペインから急行したポンペイウスが叛乱軍の不意をついて急襲。スパルタクスは自ら敵陣に突入して死に、叛乱軍も壊滅しました。剣闘士、つまり死ぬことを強要された奴隷とはこういうものでしょう。死ぬこと(屈辱)を見世物にされるのなら、自らの命を懸けて抗う。この心境はさすがに小学生には難しいでしょう。

さて、この映画は、ローマ軍の将軍マキシマス・デシマス・メレディウスが、皇帝殺害の濡れ衣を着せられ、家族を惨殺された挙句、奴隷の身に貶される姿を描いた作品です。剣闘士となってローマ市民の見世物となったマキシマスは、その圧倒的な剣技で次々と相手をなぎ倒し、やがて自らを貶めた新皇帝コモドゥスの目に止まります。恨んでも恨みきれないコモドゥスに目通りがかなったマキシマスは、復讐の炎で胸を焦がすのです。はい。復讐劇です。前皇帝から位を受け継ぐ話のほか、百戦錬磨の軍団、信頼してくれている部下、そして愛する家族すべてを奪ったコモドゥスに対する復讐劇です。この点、スパルタクスとは違うのかなと思ってしまいます。スパルタクスは剣闘士という奴隷階級の解放と人間の尊厳のために蜂起しました(僕の印象です。実際はどうだか知りません)。マキシマスにもその思いはあったかもしれませんし、また映画なので復讐劇のほうが面白いという目論見もあったのでしょうが、どうも僕はマキシマスに感情移入できなかったのです。家族愛をテーマにした映画と言われればそれまでですが、彼は自分のためだけに闘っていて、仲間の剣闘士の解放や尊厳は二の次、もしくは想定外だったように思えてなりません。

見世者にされて死ぬくらいなら命を捨ててでも抗う。こういった義憤があってこその感情移入であり、ただの私情の発露は結局伝わりづらいものです。ちょっと分別のある大人ならそのあたり割り切れるでしょうけど、小学生時代に“決闘(という名の見世物)”を経験した僕としては、どうしても当時と重ね合わせてしまうため、最後勝利できてよかったねくらいの感想しか持ち得なかったのが正直なところです。


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