ホテル・ルワンダ

(2004年 / イギリス・イタリア・南アフリカ共和国)

1994年、アフリカのルワンダでは、長年続いていた民族間の争いが大虐殺に発展し、100日で100万もの罪なき人々が惨殺された。世界中が黙殺したこの悲劇の中で、ひとりのホテルマンが、殺される運命にあった1200人の命を救っていた・・・。

国際政治の縮図となった4つ星ホテル

1990年から1993年にかけて、フツ族の政府軍とツチ族のルワンダ愛国戦線との間で行われたルワンダ内戦。93年8月のアルーシャ協定により和平合意が成立しましたが、その後もルワンダ愛国戦線の侵攻による北部地域におけるフツの大量移住や、南部地域のツチに対する断続的な虐殺行為などを含む紛争は続きました。そんな中、94年4月、フツ族のハビャリマナ大統領を乗せた飛行機が何者かによって撃墜されたことが引き金となり、フツ族によるツチ族の大量虐殺が発生。約100日間に、フツ系の政府とそれに同調するフツ過激派によって、多数のツチとフツ穏健派が殺害されました。犠牲者の数はおよそ50万人から100万人の間と言われ、ルワンダ全国民の10%から20%の間と推測されています。これにより、アルーシャ協定は破棄され、ツチ系のルワンダ愛国戦線とルワンダ軍による内戦、そしてジェノサイドが同時に進行。最終的には、ルワンダ愛国戦線がルワンダ軍を撃破し、ルワンダ虐殺はルワンダ紛争とともに終結しました。

さて、このルワンダ内戦を通して、紛争の発端から大量虐殺まで、つねに対立軸の極に居続けたフツ族とツチ族。さぞかし歴史的な因縁が深いのかと思って調べてみると、そこにはやはり大国の身勝手さが介在していました。もともと言語も同じで、遊牧民族(ツチ族)か農耕民族(フツ族)かの違いしかなく、互いに結婚して生活を共にするなど、必ずしも敵対的ではなかったとのこと。さらに、ツチ族の所有する牛が豊かな階層のシンボルとなっており、フツ族でも豊かになって牛を手に入れればツチ族とみなされていたそうです。生活感や身体的特徴など、目に見えるわかりやすい区別が存在していたわけではなかったのです。そこにヨーロッパから植民地支配者(ベルギー、ドイツ)がやって来て、支配階級にふさわしい(利用しやすい)と考えたツチ族をヨーロッパ人に近い高貴な民族として持ち上げ、フツ族は下等な野蛮人として扱われました。民族を証明するカードの所持が義務づけられ、高貴とされたツチ族は権力をほしいままにし、フツ族は永遠にフツ族として生きていくしかなくなったのです。

ところが、このツチ族とフツ族の立場が独立をめぐって逆転することとなります。ツチ族の支配者たちはベルギーと距離を置いて権力を維持しようとしたのに対し、フツ族はベルギーの支援を得、フツ族によるツチ族の大量虐殺が行われ、ツチ族は周辺諸国に流出していきました。一方、隣国のブルンジではベルギーからの独立に際して逆にツチ族が権力の掌握に成功し、 これにより生じたフツ族難民がルワンダに流れ込み、このフツ族難民たちが94年のルワンダ虐殺に大きな役割を果たしたとのことです。この短期間で起きた悲劇に対し、かつての宗主国はいかなる対策をとったのか。逃げることしかしませんでした。天然資源に乏しいルワンダに自国の兵士の命を留まらせて、命の危険をも顧みず治安維持にあたることなど、あまりに国益にかなわないことだったからです。残されたのは、罪のないルワンダのフツ族・ツチ族住民と、数少ない国連平和維持軍。狂犬と化したフツ族民兵が、ツチ族を「ゴキブリ」呼ばわりしながら獲物を求めて徘徊している。この映画の主人公ポール・ルセサバギナが支配人を務め、大勢の住民を匿っているホテルにも迫ってくるのです。

もしかしたら人種差別的に聞こえるかもしれませんが、僕はガーナやケニア、エチオピア、マリ、南アフリカなどに住んでいるアフリカ人の国籍を正確に見分けることは絶対にできません。北アフリカのアラブ系は除き、いわゆる黒人と呼ばれるアフリカ人はみなアフリカ人です。これは別に人類みな兄弟などという平和的な希望で言っているのではなく、同じものは同じにしか見えないということです。要するに、欧米人が日本人と中国人をろくに区別できないこと、アジア人がベルギー人とデンマーク人を区別できないこと、アフリカ人がボリビア人とペルー人を区別できないことと大差ありません。つまり、何を言いたいのかというと、そうした似たもの同士の間でさらに細分化された民族差異など、本質的に違うことなど何もないのに、彼らを支配する側の人間が都合のいいように線引しただけであるということ。権力や財力などでそうした強引な区分けを正当化すればするほど、互いの憎悪は増幅されて取り返しのつかないことになっていく。それが、ルワンダをはじめ、スーダン、ウガンダ、ソマリア、シエラレオネ、コンゴなどなど、アフリカ大陸で内戦が途切れることがない理由なのであり、その根底には、帝国主義時代の欧州列強による植民地支配があるのです。

だから、アフリカでは、EUのような政治経済統一共同体や、アメリカのような合衆国(連邦国家)の形成など、できるはずがないのです。欧州列強が勝手に引いた国境線がいまでも終わらない民族紛争の原因となっていることの落とし前を誰かが付けなければ、連合国家はおろか、意思統一団体の設立さえも夢のまた夢でしょう。しかし、その誰かが血だらけになりながら責任を取ろうにも、あまりに見返りが少ないから、どこも見て見ぬふりをしているのが国際政治のシビアな現実なのです。


閲覧ありがとうございます。クリックしていただけると励みになります。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください