イップ・マン 葉問

(2010年 / 香港)

1950年、イギリスの植民地の香港に、広東省から家族を連れて移住した中国武術・詠春拳の達人イップ・マン。待っていたのは、この地を仕切る洪拳の師匠ホンとの激闘だった。そんな時、中国武術を侮辱したイギリス人ボクサーに立ち向かったホンが、死闘の末、リング上で死ぬ。イップ・マンは誇りのために、命を懸けて挑むことを決意する。

誇りの裏側にあるもの

ストーリーは非常にわかりやすい勧善懲悪ものです。高潔な武術の達人がライバルとしのぎを削りながらも友情を育んでいき、最終的には彼らの誇りである武術、さらには民族を侮辱してやまない西洋人と対立しこれに打ち勝つ。まさに、子供の頃によく観たアニメや特撮のヒーローそのもので、初めて観た作品ですがどこかで観たことのあるような懐かしい心持ちにさせられましたし、この映画に共感した人は僕と似たような感想を持ったことでしょう。その感想とは、感動したり感涙にむせぶことはあったにせよ、映画の主人公であるイップ・マンは、子供が大人になるための正義心や道徳性を喚起させるためのアイコンにすぎないというものです。

ただ、イップ・マンは実在の人物です。僕はまったく知らなかったのですが、彼はブルース・リーの師匠だったとのことで、そういった意味では、単に教養や社会性を高めるための寓話、つまり完全なる作り物として扱われていると決めつけてしまうには語弊があります。とはいっても、実在の人物だからといって彼の生涯を忠実に描いているなんてことはあり得るはずもなく、彼をモチーフにした創作物だと考えて間違いないはず。映画なんだから別にそんな斜め上から見なくたって純粋に楽しめばいいじゃないかという話ですが、僕がそう考えてしまうのは、この映画が単なる娯楽カンフーものとしての側面以外に、中華民族がこうした偶像を作らざるを得なかった舞台裏が垣間見えたからです。

それは言うまでもなく「民族の統合」です。イップ・マンは香港の武術組合の金権体質に敢然と異議を唱えるのですが、その組合の師匠たちとの手合わせや抗争を通して、次第に信頼と友情を勝ち取っていきます。そんな中、組合のドンであるホンが西洋人とのボクシング対中国武術のリング上で壮絶な死を遂げます。あくまでも事故だったとしらを切る西洋人に怒り狂う香港市民の中、イップ・マンは静かな闘志を燃やし、西洋人ボクサーとの決闘に挑むのです。この西洋人対東洋人(中国を東洋全体と置き換えている)の構図はまさに近代以降、西欧列強に蹂躙され土地を切り取られた中国大陸という舞台そのもので、為す術もなく西洋人のいいようにされたことに対する意趣返しが透けて見えます。実際の中国人は外敵に対してひとつにまとまることはなく、各地に軍閥が割拠し内戦に明け暮れる日々だったというのに。

それで、中国人を武術という誇り(劇中で何度か登場した台詞)でひとつにし、西洋人を追っ払おうというわけです。しかも、イップ・マンの「人種や貴賎を問わず互いに尊重し合おう」という高潔な台詞で幕を閉じます。そう言うのは勝手です。でも、それを実現しようとして巨大な敵に立ち向かった国があります。それこそがかつての大日本帝国でした。第一次世界大戦後のパリ講和会議における人種差別撤廃への要求をはじめ、西洋人に蹂躙されたアジア諸国を一体化させ共存共栄を図ろうとした八紘一宇の精神、そして東洋人が傲慢な西洋人(英米)に対して初めて真正面からの戦いを挑んだ大東亜戦争。こうした日本の姿は冒頭部分で残虐な敵国と描かれているほか完全に無視され、日本が真珠湾で下した怒りの鉄槌はそのままイップ・マンの手柄とされ、中国の度し難い近現代史をなかったことにしようとしてしまっているのです。

何度も言いますが、映画なので深く考えることはありません。「あぁ面白かった」で終わらせればいいのです。ですが、イップ・マンという伝説的な人物を国威発揚の具材とし、見え見えの展開と歯が浮くような台詞で民族を統合しようというのであれば、自分たちはこんな子供だましの手法でバカにされたのかと怒ったほうがいい。たとえ、この映画を観て正義心や道徳性を喚起されたとしても、その背後に潜む思惑を忖度できないのであれば、上辺では高潔な精神であってもそれは洗脳であると言わざるを得ないのですから。


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