ノッキン・オン・ヘブンズ・ドア

(1997年 / ドイツ)

余命わずかと宣告され、たまたま末期病棟の同室に入院させられたマーチンとルディ。二人は死ぬ前に海を見るために病棟を抜け出し、ベンツを盗んで人生最大の、おそらく最後の冒険へと出発した。その車がギャングのもので、中に大金が積まれていたことも知らずに……。

海は生死の境目

僕が生まれた町は海沿いにあります。遠洋漁業用の大型漁船が拠点にする本格的な港町ではありませんでしたが、岸壁で釣りをする人や春先には潮干狩りに来る人たちで賑わいます。僕の家は山を切り開いた住宅地にあったため、海まで行くのに車で40分ほどかかりましたが、食卓には海藻や貝、親戚が釣ってきた魚などがよく並んだため、海はつねに身近に感じていました。その反面、地形的に海が都心へ出るための障壁となっていたため、田舎者の僕は進行方向を阻まれているという閉塞感を抱いていたのも事実です。

こうした環境で育ったので、人生における比喩的な位置づけとして、海をたどり着くべき場所だったり最終目的地に据えるという発想は一度も生まれませんでした。海はしばしば母胎に例えられ「戻るべき場所」だとか「還るべき場所」とかいう癒やし的な見方をされますが、僕の場合はその反対です。僕が住んでいた町から都心へ出るためには、海岸線をなぞるようにして陸路をわざわざ遠回りして行かなければなりません。前述のとおり、海は僕の行く手を阻むものだったのです。恨めしく思ったこともあります。海の向こう側に見える高層ビル群に飛び込みたくとも飛び込めないもどかしさは、中学、高校生の頃つねに感じていました。

この映画で描かれる海の位置づけは、明らかに象徴的な意味での目的地です。その目的とは、人生の岐路という意味での折り返し地点であったり、一度真っ白になって自分自身を見つめ直す場所、さらには終着点という納得した上での死に場所という意味だったりします。好悪の別はあれど、海がつねに身近だった僕がこういった意味合いをなぞることは、頭では理解できても直感的には実感できません。それはもしかしたら四囲を海に囲まれている日本に住んでいる日本人すべてがそうなのかもしれない。「海に還る」なんてロマンティックなこと言ったって、僕たち日本人は厳しい自然災害と闘いながら生きている民族に変わりありません。「海に還る」とは単純に自然に飲み込まれる「死」という最大の恐怖を意味するはずです。

したがって、僕にとっての海は、「乗り越えるべきもの」でした。乗り越えて都心に出て自分を試す機会を得るための第一の関門でした。もちろん、電車賃と時間をかければ都心には出られるのですが、視線の先にあるオアシス(都心)の手前に広がる砂漠(海)は、「死」であるという認識はつねに持っていました。物理的にでなく、精神的に乗り越えなければならないもの。いまでこそ交通はすごく便利になりましたが、それでも海は海のままです。こういう自然に対する日本と海外における見方の違いに気づくことも、映画を観る上での醍醐味のひとつなのかもしれません。


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