ラ・ラ・ランド

(2016年 / アメリカ)

女優を目指し、映画スタジオのカフェで働くミア。ある日彼女は、場末の店のピアニスト・セブの演奏に魅せられる。やがてふたりは恋に落ち、互いの夢を応援し合うが…。

あなた自身のBGM

ラ・ラ・ランド

いつも利用しているスーパー、時間つぶしで入った喫茶店、帰り道に通る商店街、本当は行きたくない歯医者など、その空間に足を踏み入れてふと気づくことがあります。それはBGMの存在です。お店の業態によって存在感はまちまちで、ひたすら軽快でテンポの良い曲を流すところもあれば、これでもかと言うくらいがなり立てるようなところもあり、また教えてくれないと気づかないくらいひっそりと流しているところもあったりします。これはもちろん店長の趣味などではなく(そういうとこもあるでしょうけど)、BGMがお客に与える心理的な効果を狙ったもの。できるだけ多くの商品を買ってほしいスーパーでしんみりとしたジャズはそぐわないし、逆にコーヒーを飲みながら本を読みたい喫茶店で小学生の鼓笛隊みたいな選曲はまったくの的外れです。そう考えてみると、なぜ歯医者のBGMがオルゴールのようなゆっくりとした癒し系なのか、なぜスポーツジムのBMGがスピード感のある洋楽なのかわかろうものです。電車やバス、飛行機などの交通機関でBGMがないのは、乗車すること自体は目的ではないし(到達することが目的)移動中は外に出られないことに理由があるのだと思います。朝のラッシュ時に優雅なクラシックを流したらクレームの嵐になることでしょう。僕はラジオをかけてるタクシーに迷惑を感じるほうですし。このBGMの心理的効用については検索するといろいろ気付かされることが多いので面白いです。

ということで、限定された空間に流されているBGMについて、マーケティングが介在していることは理解できました。僕らは、嫌でも耳に入ってくる音や耳をそば立てないと聞こえないBGMに動かされ、買うはずのなかった物を買ってしまったり、食べるはずのなかった料理を注文したりしているわけです。また、客層の選別もこのBGMが自動で行ってくれるようで、格式の高い喫茶店や高級ブランドを扱う店は特にBGMの選曲に気を配っているといいます。「No Music No Life」を是としている人ほど動かされやすいのではないでしょうか。ところで、ここで僕がふと思い浮かんだのは、第三者が意図的に流すBGMはあるが、「自分自身のBGM」は存在するのかということ。自分自身のBGMとはちょっと伝わりづらいと思いますが、要するに自分自身のテーマ曲、プロレスで言うと、選手が登場して花道を歩いているときに流れる入場テーマ曲のことです。でも、僕が言いたいのはただ単純に、自分のイメージを形作るためにつくられた、たった1曲のことではありません。それではお店のBGMと一緒です。たしかにプロレスラーは入場シーンでは猛々しくカッコいい曲を流して強さをアピールしますが、彼らもリングを降りれば僕ら一般人と同じ生活をしています。強さだけでなく悩んだり涙もろかったりする場面は当然あります。これです。自分自身のBGMとは、生活におけるそれぞれの局面で流れる曲のことです。

この映画を観ていて感じたのは、人の感情とは音楽そのものなのだということ。嬉しいときには弾けるようなビートの利いたナンバー、泣きたいときは哀切たっぷりのスローバラード、リラックスしているときはほぼ無音に近いスピリチュアル。さまざまなシチュエーションに遭遇したときに沸き上がる感情には、きっとその人にしか聞こえない音楽が伴われているはずなのです。たぶんそれは音楽の素養がまったくない人でも、楽器がまったく弾けない人でも、まったくの音痴の人でも、押しなべて共通でしょう。感情とは、人体という物理構造的な枠を超えた、旋律を備えた芸術品なのだと思うからです。いまの気持ちを口ずさんでくださいと聞かれたら、何も考えていなかったらどんな曲も浮かばないはずです。でも、楽しいとき怒っているときだったら、その感情にふさわしい曲が生まれることでしょう。それこそが自分自身のBGMです。この映画をはじめとするミュージカルは、自分自身のBGMに気づいた人がつくりあげた作品と言えるのではないでしょうか。感情イコール音楽という等式をキャラクターにそのまま投影させ、純粋な意味でのBGMを使わないでキャラクターの感情をダイレクトに伝える。それをうまく表現しているミュージカル映画に出合うと本当にゾクゾクします。

さて、僕には、僕なりのBGMは存在するのでしょうか。固定観念としてセットされたテーマ曲ではなく、自然な感情に伴って流れる、何らかの起伏やテンポを持ったBGMです。正直言って、ほとんど感じたことはありません。すぐに気が散る性格のせいか、ある瞬間、頭の中でそのときの行動とは異なる調子の音が乱雑に響くことはよくあります。それに、感情が高ぶると頭が真っ白になってしまってBGMどころではなくなります。とはいえ、僕自身のBGMはきっとあるはずです。それがまだ聞こえていないということは、僕が自分自身をコントロールできていない証拠でしょう。何らかの感情が芽生えたら突然歌いだしたり踊りだしたりするのはおかしなことですが、感情を実感として意識できるということは、本当の意味で人間らしいことだと思うのです。


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