日輪の遺産
(2011年 / 日本)終戦間際の1945年8月10日、陸軍大臣に呼び出された3人の軍人に、ある密命が下される。それは、マッカーサーから奪った財宝を秘密裡に陸軍工場へ移送し、隠匿せよというものだった…。
戦争の記憶は日本人のDNA
1938年(昭和13年※支那事変の翌年)6月、文部省は「集団的勤労作業運動実施ニ関スル件」を通牒。学生・生徒は夏季休暇の始期終期その他適当な長期休業中に、中等学校低学年は3日、それ以外は5日の勤労奉仕することを義務付けらました。兵士として出征したため男手の足りない農家に出向き農事、家事、清掃、修理をしたり、防空施設や軍用品に関する簡易な作業などが主な内容でした。この時期における勤労作業の対象は、主として木炭増産、飼料資源の開発、食糧増産など。学徒の動員体制は徐々に進められ、軍要員と軍需生産要員の充足に応ずるため、大学・高等専門学校の在学または修業年限が6か月短縮。真珠湾攻撃後は、軍動員の増加に伴う、産業界の労務給源は減少する一方となり、学徒の労働力が注目されるようになりました。
1943年(昭和18年)になると、軍需部門を中心に労働力不足が深刻化したため、「教育ニ関スル戦時非常措置方策」が閣議決定。学校の修業年限の抑制と学校の整理統合、戦時勤労動員の強化等の措置が取られるとともに、学校報国隊を強化し戦技・特技・防空訓練を図り、女子は救護訓練を行うようになりました。1943年(昭和19年)になると戦局が不利に傾きだし、「決戦非常措置要綱」のもと、いよいよ学徒動員が本格化。全国の学徒は4月半ば頃から、続々と軍需工場へ動員。供給不足の場合は、中等学校低学年生徒の動員、深夜業を中等学校三年以上の男子のみならず女子学徒にも課することもあったといいます。同年8月、「学徒勤労令」が「女子挺身隊勤労令」と同日に公布。動員が徹底的に強化され、夜間学校の学徒や弱体のため除外されていた学徒も対象となりました。そして、翌年、日本は敗戦を迎えます。
ここで戦時中の政策についてどうこう言うことはありません。しかし、詳細な国際政治や世界情勢、ましてや正確な戦況すらも知ろうはずのない子供たちが、どういった思いで学業を妨げられ、軍事工場で砲弾を作り、軍服や落下傘を縫っていたのか思いを致すことは重要です。「お国のため」「一億玉砕」「神州不滅」といった勇ましいフレーズなどより、彼ら彼女らの胸にあったのは、銃弾飛び交う前線で奮戦している父や兄弟だったはずです。父や兄弟が血なまぐさい戦場に行っているのに、自分だけ学問をしていることなんてできない。勤労動員に本意不本意は別として、自分も戦わなければならないと奮起したわけです。でも、本当にそうでしょうか。戦場に行った父や兄弟は、子供たちに学問を続けてほしかったからこそ銃剣を取ったのです。本当に「打倒ニミッツ、マッカーサー」が本懐だったとしたら、特攻なんてできないでしょう。
僕は戦後の生まれです。それも、日本が高度経済成長を経て、何でも手に入る時代に生まれ、バブル期を知っている人間です。当然戦争中の苦労も知らないし、むしろ日本の戦争は徹底的に否定する教育を受けて育った世代です。だから、10年程前までは、当時の日本はアジア侵略を企ててアメリカから懲罰を食らった自業自得の国だと本気で信じていたくらいです。でも、本当はそうではなかったと知るようになって、僕はこうした映画を観るたび、無意識のうちに戦時中の日本に思いを馳せます。映画だから綺麗な部分だけ切り取って美化したり、現代的な感覚で涙を誘おうとしたりする意図はわかりすぎるほどわかるのですが、当時の日本人(僕らのご先祖様)は何のために戦い、何のために将来を犠牲にし、そして何のために死んでいったのか、ふと考えている自分に気づきます。そうした発想こそ詭弁でありセンチメンタルの極みだと批判されようが、いま日本の過去が世界で貶められている現実に対する答えがそこにあると信じているからです。