パフューム ある人殺しの物語

(2006年 / ドイツ・フランス・スペイン)

数キロ先の匂いも嗅ぎわけるという、類い希な才能を持った青年ジャン=バティスト・グルヌイユが、香水調合師となる。究極の香りを求める彼は、その“素”として女性の肉体にたどりつき、次々と殺人を犯していくのだった。

嗅覚の違いが香水と消臭剤を生んだ

街を歩いていて欧米人とすれ違った瞬間、鼻をつく香水の強い匂いに眉をひそめることがよくあります。日本人が好む、控えめでほのかに香るタイプではなく、まるでお風呂用洗剤みたいな、およそ外出向けとは思えないその激臭に目眩がするような不快感を催すこともしばしばです。もちろん、欧米人のすべてがそういった強い香水を身にふりかけているわけではないのですが、匂いの強弱はあれど、彼らからは何かしら香水の匂いを感じます。その理由として、初めは欧米人の特徴である自己主張の強さが嗅覚にも訴えかけているのかと漠然と思っていました。それに、何を勘違いしたのか、匂いを大切にする欧米系民族同士、自分が好む香水をつけることで相手への配慮を示しているのかなどと好意的に考えていたものです。いやいや、よくよく調べてみると、そんなことはない、まったくの反対でした。

欧米人がはっきりとした匂いを好む一方、日本人が控えめな匂いを良しとする風土は、衛生観念の違いから生じていると思います。日本には、室内では靴を脱ぐ、床に落ちたものは口にしない、帰ってきたら手を洗うなど、外部のものを排除する徹底した衛生観念がありますが、欧米ではそこまでのレベルではないようです。日本は、カラッとした気候の欧米に比べて、湿気が多くバイキンが繁殖しやすいという土壌があることは確かですが、それでも日本の衛生観念は欧米、いや世界でもトップクラスです。その最たる例が入浴でしょう。日本でいう入浴は体を洗うだけでなく湯船に肩まで浸かって疲れを取るという行為を指しますが、欧米ではシャワーです。ユニットバスが一般的で長時間シャワーを使っていると他の人がトイレを使えなかったり、そもそもキリスト教の教えにより人前で肌をさらすことはよくないこととして考えられているからだそうです。

歴史的に言っても、パリは家の窓から糞尿を投げ捨てていたため通りは悪臭と病原菌が蔓延していて、通りを歩くにも上から降ってくる糞尿を避けるため日傘をささなければならなかったといいます。それに対し、江戸は入浴の習慣や下水道の発達などにより極めて衛生的だったそうです。だから、香水は当時から欧米上流人にとってのマストアイテムでした。それも悪臭に打ち勝つほどの匂いが求められたので、日本的なほのかな香りが選ばれるはずがなく、当然のこととして私たち日本人が眉をひそめるほどの強い香りのものが好まれるようになったのです。こう考えてみると、「匂いに敏感かどうか」ということで言えば、日本人は「匂いに神経質」であり、強い香水で匂いをごまかすのではなく、ファブリーズや消臭力に代表されるように消臭・脱臭に重きをおいているということがわかります(ファブリーズは米国製というツッコミは抜きにして)。

この映画はそうした「匂い」をテーマにした作品ですが、日本人が作ったものではないので匂いがどんどん自己主張していきます。映像的にも、吐き気のするような場末の悪臭、我欲を隠そうともしない人々の体臭、そして匂い立つうら若き女性の香味が余すところなく表現され、そこにファブリーズや消臭力が立ち入る余地はありません。常人の何倍もの嗅覚を持った主人公のジャン=バティストは、若く美しい女性の匂いに魅せられ、彼女らをダシにした香水を作るために殺人を繰り返します。そして、できあがった至高の香水はラストで群集を耽美の世界へと導いていくのです。

それにしても、群衆を魅了した香水のダシとなった女性たちは幸福だったのでしょうか。不本意な殺され方をして幸せなんてことはないでしょうが、彼女たちの香水は悪臭をごまかすための用途には用いられず、その場にいた誰もを魅惑の世界へと誘う高貴な香りへと生まれ変わったのです。それに、いくら日本人が匂いに神経質だといっても、このような香りまでも消臭しようとは考えないはずです。玄関に置いた安っぽい芳香剤を横目で見ながら、帰宅した時にほんの少しでも高貴かつ耽美な香りで迎えられたらどんなに幸福な気分になるだろうかと想像してしまいました。


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