マゴリアムおじさんの不思議なおもちゃ屋

(2007年 / アメリカ)

魔法のおもちゃ屋を営むマゴリアムおじさん。243歳になったのを機に、自分の下で働くモリーに店を譲ることに。しかし、それに不満を抱いたおもちゃたちが大反乱を起こし…。

おもちゃ屋は夢をかなえる場所

僕が幼かった頃、街に買い物に出かけるとなると、必ずと言っていいほど「おもちゃ屋」に連れて行ってもらうことを期待したものです。それほど当時は、商店街の個人経営のものから、駅前通りの大型チェーン店、デパートの5階くらいにあったおもちゃ売り場が、街にあふれていたのです。アニメキャラクターの模型やボードゲーム、パズル、ファミコンソフト、プラモデル、ぬいぐるみなどの定番から、指でこすると煙が出る紙や匂いのする消しゴムといった100円程度で買える小物まで、まさに駄菓子屋チックな混沌さが子供の冒険心と高揚感を煽っていたものです。

でも、誕生日など特別な時を除けば「買ってもらえない」という諦念が先行するため、後ろ髪引かれるどころか、目にするだけで恨めしかったり、買ってもらえている他の子供に強烈な嫉妬心が生じる場所でもありました。特に、事あるごとに親が子供に好きなものを買い与えている家庭(毎週のように新作ファミコンソフトを買ってもらってる同級生がいました)に対しては、自己嫌悪になるほど激しいジェラシーを感じたものです。いまになって考えると、何でもかんでも子供に好きなものを買い与えることは正しいとは思えないのですが、当時は「おもちゃ屋=自分の夢をかなえる場所」であったため、それが正直な感情だったのでしょう。親が運転する車がおもちゃ屋の前を何事もなく通り過ぎると、僕は未練がましくも見えなくなるまでじっと見つめていたものです。

これは昔の話ですが、いまはどうなのでしょうか。もう大人になって気にかけなくなったせいかもしれませんが、街でおもちゃ屋を見かけることがなくなったように思います。かつて精一杯あこがれた地元のおもちゃ屋は、ことごとくなくなりました。バブル崩壊後のデフレ不況や少子化などが影響しているとは思うのですが、僕自身の思い出をなぞることができなくなったことより、いまの子供たちはどのようにして夢を紡いでいるのか気になります。たしかに、高島屋とか伊勢丹、西武など都心の大型デパート、イオンなど郊外型のデパート、トイザらスといった大型チェーン店はあります。でも、街のおもちゃ屋さんというのをとんと見ない。ちょっと古い統計ですが、2004年の玩具・娯楽用品小売業の事業者数は10年前に比べて4000店も減ったというデータもあるくらいです。

この映画に出てくるおもちゃ屋は、ある見方をすると完全に荒唐無稽で所詮作り話の所産ということになりますが、でも子供の視点から見れば完全に現実です。ぬいぐるみが表情を変えたり、スーパーボールが勝手に飛び跳ねたり、扉の向こうが汽車の客車になってたり、そうした光景は大人の成熟した思考回路ではあり得ないこととして処理されますが、おもちゃ屋に夢を重ねあわせる子供の純粋な視線はそれを「夢の実現」と捉えている。おもちゃ屋(売り場)を見かけて心躍らせ、全速力で駆け寄る子供たちの視線には、人形同士がおしゃべりをしていたり、ボールが跳ねまわってイタズラをしていたり、プラモデル同士が格闘している姿が見えているのでしょう。

もちろん、僕はもう大人なのでおもちゃ屋にときめくことはありません。「買ってもらう」のではなく、「買ってあげる」立場になったからなのかもしれません。それでも、「おもちゃ屋=自分の夢をかなえる場所」というポジションは、いくつになっても変わらないものだと思います。この映画には、大人になって幼いころの夢に挫け諦めてしまったとしても、おもちゃ屋が観念として内包している意味合いを思い出すことで、夢を実現することができるというテーマが描かれています。いまや、買い物といったらネットショッピングが中心になってしまっている僕ですが、忘れていていた何かを思い出すため、たまにはデパートのおもちゃ売り場に足を運んでみようか。


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