フランス組曲

(2016年 / イギリス、フランス、ベルギー)

ドイツの支配下に置かれたフランスで、戦地に行った夫を待ちながら義母と暮らすシュリル。その屋敷にドイツ軍中尉が滞在することになり…。

作品の人生

1940年6月、フランスはドイツ軍によってパリを占領され降伏。ドイツのポーランド侵攻でドイツに宣戦布告した後はしばらく戦火を交えることはありませんでしたが、突如として起きたドイツのオランダ・ベルギー侵攻後、わずか1ヶ月後にパリが陥落し、フランス第三共和政は崩壊しました。6月22日に休戦協定が締結、7月10日には自由地区のヴィシーに親ドイツのフランス政府が成立。形式的にはフランスにヴィシー政府の主権が残ったものの、半分以上の領域はドイツ軍・イタリア軍によって占領されることとなりました。一応正統な政府としてイギリス以外の各国から承認されましたが、自由地域でもドイツの要求を拒むのは困難。境界線はドイツ軍の許可がなければヴィシー政府閣僚ですら通行できず、小荷物は郵送できるが、手紙のやりとりは禁じられました。そんな中で、抗独レジスタンスが激しくなっていきます。当初はバラバラでしたが、次第に国内ではフランス共産党が組織化し、国外ではロンドンに亡命したド=ゴールが組織した自由フランスがアフリカでドイツ軍に勝利を収めるなど、力をつけていきました。そして、1944年6月2日にド=ゴールを首班とする共和国臨時政府成立、ノルマンディー上陸作戦などの連合軍による反攻の末、8月25日にパリ解放。1944年中にフランスの大部分は連合軍によって解放され、翌年5月ドイツが降伏するに至ります。

一方、ドイツ統治下のフランス国民の生活ですが、休戦後しばらくは混乱が続いていましたが、やがて市民生活は平穏を取り戻します。フランスの輸出入は極度に減少し、残った輸出入の大半はドイツ向けとなったため、1940年9月からは配給制が始まり、年齢別・職業別によって食糧が割り当てられるようになりました。ドイツの戦況が悪化すると配給量は減少の一途をたどり、電力不足・交通の悪化が激化。1942年秋からはイギリス軍による空襲が増加し、多くのフランス人が命を落し、治安は悪化し、ユダヤ人等に対する密告が横行するようになります。また、ユダヤ人迫害も明確化し、パリの商店では「ユダヤ人お断り」の張り紙が出現し、ユダヤ人排斥デモが各地で発生。ユダヤ人は公共施設に入ることもできず、買い物もろくにできない状態に追い込まれ、ドイツ本土で行われていた経済のアーリア化政策が適用されたことで、ユダヤ系、またはそう見られた企業の吸収・資産没収などが行われました。1942年になると、パリではたびたび外国系ユダヤ人が検挙され、強制収容所に送致。その影には、在仏ユダヤ人総連合の対独協力で、東欧や外国籍のユダヤ人を優先してナチスに引き渡すことで、フランス国籍のユダヤ人を守ろうとした経緯があったとのことです。

さて、本作の原作であるイレーヌ・ネミロフスキーは、ロシア帝国領だったウクライナ・キエフに生まれたユダヤ人。ロシア革命後に夫と2人の娘とフランスに移住したが、そこでフランス憲兵に拘束され、1942年アウシュヴィッツで亡くなりました。その時、イレーヌが残したトランクを2人の娘は母の形見としてそれを大事に持っていましたが、辛い思い出に蓋をし続けた結果、トランクの中身を確認することはしませんでした。その中には日記が入っていると思い込み、まさか未完の小説「フランス組曲」が入っているとは考えていなかったのです。「フランス組曲」がトランクの中に眠っていた期間は実に60年に及びました。まさに、イレーヌという個人が歴史の激流に翻弄されたのと同じく、「フランス組曲」もまた発見されるまで流転の歴史を体験し続けたのです。よって、本作は、イレーヌの人生プラス「フランス組曲」の人生をも加味されるべきもの。ですが、正直な感想を言うと、禁断の愛という本作のテーマがやや影薄く、あまり緊迫感や差し迫った空気は伝わってこなかったのが残念。ソープオペラ的な味付けを部分的に切り取って、それをドイツ統治下のフランスに当てはめたという見方しかできなかったのは、単に僕の映画を観る視点がぶれていたと思いたいですが……。


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