サンザシの樹の下で
(2010年 / 中国)文化大革命の嵐が吹き荒れる1970年代初頭の中国。国策のもと派遣された農村で住み込み実習を行っていた女子高生のジンチュウは、青年スンと出会う。彼女への好意を隠さないスンに、ひそかに惹かれてゆくジンチュウ。しかし、それは彼女にとって許されぬ恋だった。
純真さの背後から見え隠れする時代の闇
自宅にテレビがない僕でさえ、NHKで朝に放送されている「連続テレビ小説」が爆発的な人気を博しているという話題によく接します。最近で言うと2013年の「あまちゃん」でしょうか。宮藤官九郎脚本による軽妙なストーリー展開、主人公の能年玲奈をはじめとする個性的な俳優たち、耳馴染みのよいテーマ曲や挿入歌などが相乗して視聴率は平均で20%を超え、従来のターゲットであった主婦だけでなく若年層にも訴求したことが功を奏したとのことです。僕の周りでもハマっている人が結構いて、出勤すると「今日のあまちゃん観た?」という会話が漏れ聞こえてきたことをよく覚えています。正直、僕は連続テレビ小説なんて中高年の主婦限定の番組だろうとずっと思っていて、「あまちゃん」のヒットはこれまでの趣向を変えたことによる偶発的なヒットに過ぎないと勝手に決めつけていました。でも、違うんですね。1961年にスタートした連続テレビ小説は、2000年代半ば頃から平均視聴率20%を下回る作品が続いていましたが、2010年上期の「ゲゲゲの女房」以降は再び上昇傾向となり、2012年上期「梅ちゃん先生」ではついに平均視聴率20.7%まで回復。「あまちゃん」以降は20%超えが当たり前という状況のようです(歴代1位は「おしん」の52.6%)。
では、なぜ朝という忙しい時間帯の放送にもかかわらずここまで注目を集めるのか(お昼に再放送がありますが)。そもそも連続テレビ小説どころか、テレビを一切見ない僕に正確な分析ができるはずありません。ただ、傾向として考えられる共通点をあげるとすると、ドラマの時代設定が戦中戦後から高度成長期前にかけての日本人が歴史上最も耐え忍んだ時期、舞台が都会だったら下町、地方だったら農村地帯など富裕とは言えない地域、人物がごく普通の一般人か権力に押しつぶされる立場の人、にあるのではないかと思います。そして、物語の核となっているのは「逆境に負けず、たくましく生きること」。欲しい物も買えず、したいことも自由にできず、会いたい人にも会いに行けない。そうした時代環境による抑圧や制限の中でも、家族や仲間と力を合わせて笑顔を絶やさず生きていく。主人公と同じ時代を生きた人には自らの人生を主人公たちに重ね合わせ、苦労を知らない現代っ子は困窮の中でもひたむきに生きることに一種の憧れを抱くなど、あらゆる世代の琴線に触れ心を揺さぶるのではないでしょうか。この時代を描いたドラマは他にいくらでもありますが、やはり主人公の“純真さ”を全面に押し出している点で連続テレビ小説に軍配が上がるのではないかと思います。
この映画の時代設定もまさに連続テレビ小説「的」で、現代中国の暗黒時代とも言える文化大革命の頃を舞台としたものでした。文化大革命とは、2000万~4300万と言われる餓死者を出した大躍進政策の失敗を糊塗するため起こした政治闘争のことで、紅衛兵と呼ばれる毛沢東の私兵が思想統制、拷問、つるし上げ、暴行、恐喝、財産没収、糾弾、時には殺人などを行い徹底的な毛沢東への個人崇拝を強制していきました。社会主義革命の過程におけるプロレタリア独裁がまさに顕現し、反体制的であれば親でも密告するという異常な時代でもありました。そんな文革期に毛沢東の指導により行われた思想政策である下放。青年層が地方の農村で働き、肉体労働を通じて思想改造をしながら社会主義国家建設に協力することが目的ですが、これにより多くの青年層が教育の機会を失い、中国の教育システムならびに学問は崩壊。下放を受けた世代は無学歴・低学歴という状況が顕在化したのです。どう考えても戦時下とほぼ変わりのない異常事態なのですが、そこに“純愛”が絡むと途端に「仕方のない時代だった」といった感じにぼかされてしまいます。連続テレビ小説で戦争は舞台背景として主人公の“純真さ”と“悲惨さ”を増幅させる効用をもたらしますが、文革もそんな感じで利用され政策の誤りが顧みられることはありません。挙句の果てには、サンザシの花が赤くなるのは日本軍の虐殺が原因などと言って、数千万人の中国人民を葬った毛沢東の犯罪行為を薄めてしまおうとする始末。歴史ドキュメンタリーではないのでそこまで考えることはないのかもしれませんが、学者でもない限りこうした創作が史実だと思わされてしまうことがあるだけに、「ああいう時代の純愛っていいですね。涙が止まりませんでした」なんていう無垢な人にはちょっと首を傾げざるを得ません。
それにしても、もし辛い時代を背景にしなければ“純真さ”や“純愛”を描けないのであれば、いま僕らが生きている現在とはどういう時代なんだろうと考えてみる必要があるんじゃないかと思います。